あゆかわ‐てつや〔あゆかは‐〕【鮎川哲也】
鮎川哲也(あゆかわ・てつや)
本名中川透。1919年(大8)、東京生まれ。小学生のときに満州に渡る。敗戦後の栄養失調から肺を病み、療養中、探偵小説の執筆を思い立った。別名青井久利。
1943年(昭18)頃、佐々木淳子名義で、「婦人画報」の朗読文学募集で「ポロさん」が一席入選。
1948年(昭23)、那珂川透名義で、「月魄」を「ロック」に発表。
1948年(昭23)、薔薇小路棘麿名義で「ロック」第一回懸賞探偵小説の次点に「蛇と猪」が入選。同時に高木彬光の「白雪姫」が選外佳作になっている。
1949年(昭24)、中川淳一名義で「地虫」を「宝石」百万円懸賞の短編部門に入選し、「宝石」に掲載。
1950年(昭25)、中川透名義で「宝石」百万円懸賞の長編部門に「ペトロフ事件」が二席入選し、「宝石」に掲載。しかし、「宝石」の経営環境悪化にともなう懸賞金不払いでトラブルをおこし、鮎川哲也は同誌と一時疎遠になる。「ペトロフ事件」は1943年(昭18)頃にクロフツの「ポンスン事件」に触発され、いったん書き上げられたが、原稿は紛失してしまっため、再度記憶を辿って書かれたもの。この作品は、1951年(昭26)には第4回日本探偵作家クラブ賞長編賞の候補となった。
1953年(昭28)、同人誌「密室」に中川透、宇多川蘭子名義で「呪縛再現」を発表。
1954年(昭29)、Qカムバアグリーン名義で「山荘の一夜」を「探偵実話」に発表。
1954年(昭29)に中川透名義で「探偵実話」に発表した「赤い密室」が、1955年(昭30)の第8回日本探偵作家クラブ賞の最有力候補となったが、高木彬光が手を入れているという事実無根の噂を流し、受賞を逸する。この作品は日本探偵作家クラブの「探偵小説年鑑1955年版」に収録される。
1956年(昭31)、書下し長編探偵小説全集の新人募集懸賞である“13番目の椅子”を射止めた「」刊行の際、鮎川哲也にペンネームを改める。「黒いトランク」は横溝正史の「蝶々殺人事件」に挑戦した作品だという。この作品は1957年(昭32)、が第10回日本探偵作家クラブ賞候補作となる。日本屈指の名作として名高い。
1956年(昭31)に「動向」に発表した「青いエチュード」は日本探偵作家クラブの「探偵小説年鑑1957年版」に収録される。
1957年(昭32)、NHKのテレビ番組「私だけが知っている」の脚本を山村正夫、笹沢左保、土屋隆夫、夏樹静子、藤村正太とともに執筆。
1957年(昭32)、「りら荘事件」を「探偵実話」に発表。
1957年(昭32)に「宝石」に発表した「五つの時計」が 1958年(昭33)、第11回日本探偵作家クラブ賞の候補となる。同時に日本探偵作家クラブの「探偵小説年鑑1958年度版」に収録される。
1958年(昭33)に「宝石」に発表した「白い密室」が、1959年(昭34)に第12回日本探偵作家クラブ賞の候補となる。同時に日本探偵作家クラブの「探偵小説年鑑1959年度版」に収録される。
1959年(昭34)に「オール読物」に発表した「金魚の寝言」は日本探偵作家クラブの「推理小説ベスト15 1960年版」に収録される。
1959年(昭34)に「宝石」に連載した「黒い白鳥」と、同年書下しの「憎悪の化石」で、1960年(昭35)の第13回日本探偵作家クラブ賞受賞。
1960年(昭35)に「宝石」に発表した「急行出雲」は日本探偵作家クラブの「1961 推理小説ベスト20」に収録される。
1961年(昭36)に「週刊文春」に発表した「人はそれを情死と呼ぶ」は「ヒッチコックマガジン」の1961年ベストで5位に選ばれている。
1961年(昭36)に「小説新潮」に発表した「ああ世は夢か」は日本探偵作家クラブの「1962 推理小説ベスト20」に収録される。
1962年(昭37)に「小説中央公論」に発表した「下り「はつかり」」は日本推理作家協会の「推理小説ベスト24 1963年版」に収録される。
1963年(昭38)に「オール読物」に発表した「わるい風」は日本推理作家協会の「推理小説ベスト24 1964年版」に収録される。
1964年(昭39)、芦川澄子と結婚するが、1967年(昭42)に離婚。のち、復縁。
1965年(昭40)に「推理ストーリー」に発表した「死が二人を別つまで」は日本推理作家協会の「推理小説ベスト24 1966年版」に収録される。
1970年(昭45)に「小説現代」に発表した「水難の相あり」は日本推理作家協会の「推理小説代表作選集 推理小説年鑑 1971年版」に収録される。
1972年(昭47)に「小説宝石」に発表した「竜王氏の不吉な旅」は日本推理作家協会の「推理小説代表作選集 推理小説年鑑 1973年版」に収録される。
1973年(昭48)に「小説宝石」に発表した「中国屏風」は日本推理作家協会の「推理小説代表作選集 推理小説年鑑 1974年版」に収録される。
1975年(昭50)に「問題小説」に発表した「割れた電球」は日本推理作家協会の「推理小説代表作選集 推理小説年鑑 1976年版」に収録される。
1976年(昭51)に「問題小説」に発表した「相似の部屋」は日本推理作家協会の「推理小説代表作選集 推理小説年鑑 1977年版」に収録される。
1979年(昭54)、「沈黙の函」が「週刊文春」の79年「傑作ミステリーベスト10」の5位に選ばれる。
1980年(昭55)に「瑠伯」に発表した「マーキュリーの靴」は日本推理作家協会の「推理小説代表作選集 推理小説年鑑 1981年版」に収録される。
1982年(昭57)に「問題小説」に発表した「塔の女」は日本推理作家協会の「推理小説代表作選集 推理小説年鑑 1983年版」に収録される。
1983年(昭58)に「小説宝石」に発表した「秋色軽井沢」は日本推理作家協会の「推理小説代表作選集 推理小説年鑑 1984年版」に収録される。
1984年(昭59)、「週刊新潮」に発表した「死びとの座」が「週刊文春」の84年「傑作ミステリーベスト10」の7位に選ばれる。
1985年(昭60)に「小説宝石」に発表した「材木座の殺人」は日本推理作家協会の「推理小説代表作選集 推理小説年鑑 1986年版」に収録される。
1975年(昭50)から「幻影城」に掲載し、休刊とともに中絶した「探偵作家尋訪記」が、1985年(昭60)に「幻の探偵作家を求めて」として刊行。
1997年(平)に編んだアンソロジー「硝子の家」が探偵小説研究会の「本格ミステリベスト10」の7位に選ばれる。
2001年(平13)、第1回本格ミステリ大賞の特別賞を受賞。
2002年(平14)、多臓器不全で死去。予告されていた「白樺荘事件」は途中まで書かれていたと噂されているが、ついに未刊。
2002年(平14)、日本ミステリー文学大賞特別賞受賞。
アリバイ崩しや密室などを得意とする本格派。また、数々のアンソロジーを編み、埋もれた探偵小説の発掘にも熱心。新本格派の生みの親のひとり。
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