「うちで当てたやつのタイトル、ほとんどつけた」
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/16 05:50 UTC 版)
「岡田茂 (東映)」の記事における「「うちで当てたやつのタイトル、ほとんどつけた」」の解説
1964年に「海抜ゼロメートル」という原作のタイトルを『二匹の牝犬』に変更してヒットさせ、題名を付けるのに絶対の自信をつけたといわれる。「タイトルというのは実は興行の中で一番難しいんだ」「うちで当てたやつのタイトル、ほとんどつけた」などと岡田は話しているが、1960年代後半から岡田の号令で量産されたこうした「エログロ映画」・「東映ポルノ路線」の扇情的な題名も岡田自身が命名したものが多い。『大奥㊙物語』『現代ポルノ伝 先天性淫婦』『残酷・異常・虐待物語 元禄女系図』『恐怖女子高校』『徳川セックス禁止令 色情大名』『はだか大名』『やさぐれ姐御伝 総括リンチ』『ポルノの帝王』『色情トルコ日記』『二匹の牝犬』『三匹の牝蜂』『ネオンくらげ』『未亡人ごろしの帝王』『尼寺㊙物語』『温泉みみず芸者』『温泉あんま芸者』『温泉こんにゃく芸者』『温泉ふんどし芸者』『(㊙女子大寮』『にっぽん'69 セックス猟奇地帯』『好色妻』『色罠』『変態魔』『後家ごろし』『多情な乳液』『悶絶』『エロ将軍と二十一人の女妾』など、いずれも観客のエロ心をそそるものだった。岡田自身「私の付けるタイトルは定評がある」と自画自賛し「タイトルというものはその場でパッと閃いたものでなくてはダメ。その場のインスピレーションが非常に大事で、逆にいえば、タイトルに時間がかかるようでは、その映画は山場やテーマとするポイントがピンぼけしているということ」と解説している。『エロ将軍と二十一人の女妾』は最初“エロ”はタイトルに付いておらず、今でこそ日常用語になっていてさらりと聞けるが、当時は人に言うのも、はばかれる感じだった。“エロ○○”のパイオニアともいえる。『温泉みみず芸者』は、エロ時代劇の後、次はエロ芸者ものをやれ、と命じたもので、天尾完次プロデューサーや監督の鈴木則文をタコのよく獲れる海岸に行かせ、タイトルも『温泉タコ壺芸者』に決まっていた。しかし岡田が電話をかけてきて「考えたけど、タコ壺は弱い。みみずにしろ」と言うので、鈴木は「もうタコ壺を使って撮影してますよ」と言うと「中身はいいからタイトルだけはみみずで行け」と変えさせた。また映画の「クライマックスは“セックス対決”で行こう」と指示したのも岡田で「その方が作品が締まる。温泉芸者で“勝負したら締まる”」という岡田理論であった。天尾が池の履歴書を成人のものに100%捏造したとされる。本作の食いつきがいいと池玲子主演で二作目の製作を指示、〈悪女もの〉でタイトルを『先天性毒婦』に決めた 。池はまだ16歳であった。ところが後〈悪女もの〉というコンセプトは吹っ飛び、『現代ポルノ伝 先天性淫婦』と改題され公開された。また浅草の有名すき焼き店「いろは」をモデルにした映画に『妾二十一人 ど助平一代』(1969年)というタイトルを付け、主演の佐久間良子を号泣させた。当初のタイトル案は『あかさたな』で、佐久間はこれ以降、自身の将来に不安を感じ舞台やテレビにシフトすることになる。温泉芸者の取材をしてこいと指示を受けた鳥居元宏が、何のアイデアも浮かばず困っていると、岡田に呼び出され、「イメージだけでも話せ」と迫られ、やけくそ半分に「スッ裸の女がバイクに乗って温泉街を走り回る..そんなイメージです!」と答えると「おっしゃ!それで行け!!」と岡田が付けたタイトルが『温泉ポン引女中』(1969年、荒井美三雄監督)。 内藤誠は、岡田から「おい内藤、おまえのためにいい題名を考えてやったぞ」と言われるたびに、頭を抱えたという。岡田と、世に聞こえる惹句師・宣伝部の「不良性感度」抜群のセンスには脚本家・小野竜之助ともども心底、恐怖した。黒岩重吾原作の『背徳の伝道者』を『夜の手配師 すけ千人斬り』と題名を変え、これを『11PM』で大橋巨泉が「こういう題名を思いつくなんて天才だね」と言ったりするので、なお始末が悪かった。黒岩は「お金は戴きますが…」と原作料を請求した上で、名前はクレジットから消えたという。中島貞夫は「この手(エログロ映画)の題名は全部岡田さんが考えます。最初は題名を考えてたんですが、あるときから無駄だと思い付きました。どうせ岡田さんが変えるんだから」と話している。また「この手」ではない「任侠映画」のタイトルも岡田が付けたものが多いと、側近だった渡邊達人が話している。『人生劇場 飛車角』『昭和侠客伝』『緋牡丹博徒』『やくざと抗争 実録安藤組』『人斬り与太 狂犬三兄弟』など。『県警対組織暴力』の題名は、ヤクザ映画を圧迫する警察の圧力にムシャクシャしていた岡田が便所の中で思いついたのは有名であるが、『人斬り与太 狂犬三兄弟』も題名に難航していて、岡田が便所から飛び出して「出たー!狂犬三兄弟や!」と出したものという。岡田の考え出す題名は単純明快で力強く「任侠映画」には適切であったので興行価値を倍加するのに役立ったという。この他、1964年の時代劇『大殺陣』、『忍者狩り』、『間謀』も岡田の命名。鳥居元宏の監督デビュー作『十七人の忍者 大血戦』(1966年)は、忍者映画という企画で脚本段階のうちから、鳥居を呼びつけ「タイトル決まったで!『十七人の忍者 大血戦』や」というので、鳥居が「(忍者は)十七人も出てきませんよ」と反論すると「ええわ。新人監督の映画は題名を続編みたいにした方が売りやすいやろ」と、内容は関係なく1963年の『十七人の忍者』の続編のようなタイトルにした。『強盗放火殺人囚』(1975年)は、高田宏治が「『大阪脱獄囚 非常線突破』いう題目で脚本を書いてたら、知らん間に岡田さんに題名に変えられてしもた。そしたら女性ファンに『こんなえげつないタイトルの映画作るようじゃおしまいね』なんていわれてフラれてもうた」と述べている。その他、『新幹線大爆破』(1975年)、1978年の『柳生一族の陰謀』というまんまのタイトルや、翌1979年の『真田幸村の陰謀』。『恐竜・怪鳥の伝説』(1977年)、『地獄』(1979年)『突入せよ! あさま山荘事件』(2002年) のタイトルも岡田の命名。 1981年の『冒険者カミカゼ -ADVENTURER KAMIKAZE-』は、千葉真一と佐藤公彦、真田広之の三人で、『冒険者たちのメロディー』というタイトルを付けて岡田のところに行ったら、岡田が『爆発! カミカゼ野郎』と変更した。「社長、このタイトルはどうも…」というと岡田がカーッと怒り、千葉は初めて岡田と喧嘩した。もうこりゃダメだと思い「すいません"カミカゼ"残します。その替り"爆発"はとって下さい」と言ったところ、横から佐藤が「アドベンチャー・カミカゼ」と英語タイトルを出し、結局何とか上記タイトルで収まった。 岡田のタイトル命名で失敗したケースは『武士道残酷物語』『陸軍残虐物語』など。これらはヤクザや右翼が「残虐」とは何かと東映に押しかけ言い合いにもなったが、興行的にも振るわなかったという。また、『突入せよ! あさま山荘事件』も、製作総指揮の原正人らが、公開後の反省会で、「(今の時代は)やはり"突入せよ"ではなく、"救出せよ"で行くべきだった」という結論に達している。
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