紋章
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/11/11 21:56 UTC 版)
作成・描画

紋章は、長い年月に徐々に体系化された紋章学と呼ばれる一定の規則や慣例に従って作成され、図案を表現するものではあるが幾何学的な定義よりも、もっぱら紋章記述(ブレイゾン)と呼ばれる簡潔な隠語で書かれて定義されている。戦闘用の盾を含め、何らかの媒体に描かれた紋章が失われてしまっていたとしても、紋章記述さえ残っていれば紋章の図案を復元することができる。
西洋の紋章は幾何学的に正確であることよりも認識性を重視するため、数や方向などの紋章記述の内容や、指示されていなくても守るべきと定められた暗黙の規則や慣例に反しない範囲で紋章を描く際の解釈や描画方法にはかなり自由度がある[10]。つまり、紋章にある図形、主に具象的な対象を表現しているコモン・チャージを描く場合に、紋章記述の解釈の仕方や暗黙の規則について理解している必要はあるが、それを簡略化した幾何学的なデザインで描いたとしても、写真のように写実的なデザインで描いたとしても、それと間違いなく認識できればどのように描いても良いということである。
紋章の例
ジャン1世の紋章

最初の例は、ジャン1世の紋章である。盾のフィールドが4分割されており、第1クォーターと第4クォーターに赤と銀で塗り分けられたボーデュアに囲まれたフランス王家の百合の紋章、第2クォーターと第3クォーターにブルゴーニュ公を示す赤のボーデュアに囲まれた青と金のベンディ(斜め縞)が組み込まれており、中央にフランドル伯を示す金地にライオンの紋章を描いたインエスカッシャンが重ねられている。
英国王の紋章

次の例は、イギリス国王の紋章、すなわちイギリスの国章である。盾の両側をイングランドを象徴する獅子とスコットランドを象徴するユニコーンで支えており、盾の上のヘルメットにはクラウンが置かれ、クレストは王冠を戴いたライオンである。盾のフィールドは4分割され、第1クォーターと第4クォーターにイングランドの国章である赤地に3頭の金のライオン、第2クォーターにスコットランドの国章である金地に赤のダブル・トレッシャー・フローリー・カウンター・フローリーで囲まれた赤のライオン、第3クォーターにアイルランドの国章である青地にハープがそれぞれ描かれている。
オーストリア・ハンガリー帝国の国章

最後の例は、オーストリア=ハンガリー帝国の国章である。第一次世界大戦中に制定されたものであり、広大な領土から成る国家を示す複雑な構成となっている。オーストリア(左)とハンガリー(右)を表す2つの盾とクラウンがあり、それを支えるサポーターはオーストリアを表すグリフォン(上半身が鷲、下半身が獅子)、他方はハンガリーを表す天使であった。盾の中にはハプスブルク家の双頭の鷲の紋章を始めとして、イストリア、ガリツィア・ロドメリア、クロアチア、スラヴォニア、ダルマチア、ボスニア・ヘルツェゴビナ、ボヘミアなど多くの構成地域の紋章が組み込まれている。また、盾の間には騎士団章(勲章)が配置されている。
欧州の紋章
イギリス

イングランドにおいて現存する最古の紋章は、右に示したアンジュー伯ジョフロワ4世のものとされている。エナメル細工(七宝)でできた墓板には、6頭の金のライオンを散らした青色の盾と剣を携えたジョフロワ4世の姿が描かれている。この盾は、ジョフロワ4世の妻であるマティルダの父・イングランド王ヘンリー1世から贈られたものとされている[11]。写真のライオンは赤色に変色しているが、金が長年にわたって酸化したものである。
ジョフロワ4世の子であり、プランタジネット朝を開いたヘンリー2世が紋章を使用したという証拠は残っていないが、更にその庶子であるソールズベリー伯ウィリアム・ロンゲペー (William Longespée) が6頭のライオンの盾を継承しており、死後ロンゲペーの娘アディラにも継承されている。ヘンリー2世で1代飛んでしまったが、これが3代にわたる紋章継承の実績となり、ウィリアム・ロンゲペーがイングランドにおける最初の紋章使用者とされている[12]。
サクソン朝のエドワード証誓王のものとされる盾に描かれた“しるし”は、青地にクロス(十字)の周りに5羽の鳥(恐らく鳩であろうと考えられている)が描かれたものであった。これを1世紀以上も後になってからリチャード2世がその紋章に組み込んでいたが、証誓王がその“しるし”を用いていたという証拠はなく、相当に時代が飛んでいることから、この盾は紋章とは見なされていない[13]。
紋章と同じ種類の言葉
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