5 - 6歳時
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/14 08:47 UTC 版)
中山牝馬ステークス(9着)を最後に、デビュー戦から騎乗し続けていた小島太が騎手を引退。その後は蛯名正義などと新コンビを組み府中牝馬ステークスを勝ち、古馬に開放されたエリザベス女王杯の連覇を目指したが、直前で故障を発症し無念の回避。翌年、定年の境勝太郎から調教師に転向した小島太厩舎に移った4月に登録を抹消した。
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5 - 6歳時
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/16 22:48 UTC 版)
1979年、古馬になったサクラショウリはアメリカジョッキークラブカップから始動。このレースでグリーングラスに競り勝って1着になったサクラショウリは続く目黒記念(春)も快勝し重賞連勝を果たした。 だが、続く中山記念は2着、天皇賞(春)もカシュウチカラの2着と勝ち切れないレースが続いた。それでも続く第20回宝塚記念ではレコードタイムで制し、2つ目のビッグタイトルを手にした。 しかし宝塚記念後、秋になってからのサクラショウリは精彩を欠いた。天皇賞(秋)5着、有馬記念6着と着順こそ悪くないものの勝ち馬に離されるレースが続いた。 明けて1980年、6歳になったサクラショウリはアメリカジョッキークラブカップから始動するも4着と完敗。続く目黒記念(春)も11着と大敗し、これを契機に引退した。 通算成績は24戦8勝。掲示板を外したのは5歳時の有馬記念と引退レースとなった目黒記念(春)のみと、負けたレースでも常に好走を続けた。
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5-6歳時(1957-1958年)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/12 08:56 UTC 版)
「キタノオー」の記事における「5-6歳時(1957-1958年)」の解説
春まで休養したキタノオーは、3月に目黒記念(春)で復帰。年頭から出走を続けていたハクチカラも出走したが、当日は休養明け、ハクチカラより2kg重い63kgという斤量がかさなりつつも、キタノオーが1番人気に推された。しかしレースはハクチカラが勝利し、キタノオーは同馬から約2馬身差の5着と敗れた。のちキタノオーは西下し、オープン競走を楽勝したのち、4月29日に天皇賞(春)へ出走。「キタノオーが完調ならば秋の天皇賞へ」という陣営が続出し、当日は7頭立ての小頭数でハクチカラも不在であった。レースでは1番人気に応え、3分21秒3のレコードタイムで八大競走2勝目を挙げた。 オープン競走勝利を経て夏を休養に充て、10月に出走したオールカマーではハクチカラに加え、当時「アラブの怪物」の異名を取ったアングロアラブのセイユウとも顔を合わせた。負担重量はキタノオー64kg、ハクチカラ65kgであった。レースでは逃げを打ったセイユウが第3コーナーまで飛ばしていたが、ほぼ同時にスパートをかけたキタノオーとハクチカラがこれをかわして競り合った末、キタノオーが半馬身先着して勝利した。 続く目黒記念(秋)では前走とは逆にキタノオー65kg、ハクチカラ64kgという負担重量となり、結果もそのまま入れ替わってハクチカラが半馬身差で勝利した。その後、ハクチカラはキタノオーに出走資格のなかった天皇賞(秋)を制覇。両馬は当年中山グランプリから改称された年末の有馬記念で雌雄を決するとみられ、一般にはキタノオーが優勢であろうと見られていたが、キタノオーは直前になって故障のため休養に入り、対決は幻に終わった。有馬記念はハクチカラが単勝1.0倍という人気に応えて優勝している。両馬の対戦成績はキタノオー6勝、ハクチカラ4勝という結果となった。 1958年以降、ハクチカラはアメリカへの長期遠征を敢行。春に復帰したキタノオーは緒戦のオープン戦こそ勝利したものの、続く東京盃では格下とみられたメンバーを相手に2着と敗れた。1カ月後のオープン戦でも前年の菊花賞優勝馬ラプソデーに敗れ、これが最後の出走となった。 夏を休養に充てていたキタノオーは、秋になり北海道から中山競馬場への輸送途中に急性肺炎を発症し、10月14日に死亡した。6歳没。翌1959年2月23日、アメリカで出走を続けていたハクチカラは通算11戦目のワシントンバースデーハンデキャップに優勝し、日本馬として初めて国外の重賞競走優勝馬となった。またハクチカラは1984年にJRA顕彰馬に選出され殿堂入りしたが、選考委員を務めていた大川慶次郎は「個人的な意見を言わせてもらえば、キタノオーの方が一枚上だったかもしれません」と評し、「ハクチカラとキタノオーも、ペアで殿堂に入れるべきだったかなと思いますね。殿堂馬に入ったことで、ハクチカラを語る人は今後も多いと思いますが、キタノオーを語る人は少ないでしょう」と述べている。2000年に日本中央競馬会の広報誌『優駿』が選出した「20世紀のベストホース100」には、ハクチカラと共に名を連ねている。
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5-6歳時(1986-1987年)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/06 01:11 UTC 版)
「ミホシンザン」の記事における「5-6歳時(1986-1987年)」の解説
休養後、翌1986年3月に日経賞で復帰した。当日は重馬場にも関わらず圧倒的な1番人気に支持されたが、6着に敗れた。競走後には4歳時の患部と同じ左前脚の骨折が判明し、休養に入った。秋になって復帰したが、初戦の毎日王冠3着に始まり、天皇賞(秋)はサクラユタカオーの日本レコード優勝の前に3着、ジャパンカップは日本馬最先着ながら3着、1番人気に推された有馬記念でも3着と、秋のGI戦線で全て3着に終わった。当年は未勝利であったが、他の父内国産馬も総じて不振であったため、翌1月には2年連続の最優秀父内国産馬に選出された。柴田によれば、当年のミホシンザンは怪我を恐れて本気で走ることをしなかったという。 翌1987年も現役を続行、1月25日にアメリカジョッキークラブカップに出走した。レースは柴田が逃げ戦法を採ると、そのまま流れをスローペースに落としてゴールまで押し切り、約1年2ヶ月振りの勝利を挙げた。次走、天皇賞(春)への前哨戦として出走した日経賞には菊花賞以来という好調で臨み、前年度代表馬ダイナガリバー以下を5馬身突き放して優勝、天皇賞の本命馬と目された。 4月29日の天皇賞では、圧倒的な1番人気に支持された。しかし日経賞以降ミホシンザンの状態は急速に下降しており、皐月賞以来の最悪に近い状態にあった。レースでは先団の中で終始内埒沿いの最短距離を通り、直線で先頭に立った。直後にニシノライデンがミホシンザンを抜き去る勢いで追い込みを見せたが、同馬はゴール前で外側に大きく斜行、最後はミホシンザンとニシノライデンが内外の埒沿いで並んで入線した。写真判定の結果、ミホシンザンがハナ差凌ぎ切って優勝、三度目のGI制覇となった。一方、ニシノライデンは直線の斜行で3位入線アサヒエンペラーの進路を妨害したとして失格処分となり、公式記録では繰り上がり2着となったアサヒエンペラーと1馬身1/4差となっている。 競走後のミホシンザンは駈歩もできない程に疲労困憊しており、6月にはファン投票1位で選出された宝塚記念を回避した。秋の復帰を目指して函館競馬場で調整が続けられたが、復調は見られず、そのまま引退した。 同年12月13日、大雪により2レースで中止した中山競馬場で引退式が行われ、天皇賞優勝時のゼッケン「6」を着けてラストランを披露した。この引退式は史上初めて天候が雪の中で行われたものであった。 翌年1月には、当年の年度代表馬となったサクラスターオーを差し置き、3年連続で最優秀父内国産馬に選出された。
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5-6歳時(1955-1956年)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/14 06:48 UTC 版)
「ダイナナホウシユウ」の記事における「5-6歳時(1955-1956年)」の解説
5歳となった1955年は年頭からオープン競走を2連勝したが、天皇賞(春)を前に出走した3戦目では3着と敗れる。この競走後、屈腱炎のため休養に入った。なお、ダイナナホウシユウが回避した天皇賞はタカオーがレコードタイムで優勝している。 9月に復帰し、緒戦のオープン競走では66kgを負いながら2着に5馬身差をつけて勝利。続く京都記念では65kgを負い、2200メートルを2分16秒4の日本レコードタイムで制した。のち天皇賞(秋)に備えて東上し、前哨戦として臨んだオープン競走・2000メートルを2分2秒2で駆け抜け、2戦連続のレコード勝利を挙げた。なお、前者のレコードは1965年まで(コースレコードとして)、後者は1963年にヤマトキョウダイに破られるまで保持された。 3連勝の成績で天皇賞を迎えたが、回避も視野に入っていたほど脚部の状態は芳しくなく、最終調教はごく軽いものであった。レースでは逃げ粘りつつも、最後の直線でいったんファイナルスコアに交わされたが、これを再び差し返しての優勝を果たした。上田三千夫は後に「あれは鼻の差だったが、私は勝ったという自信があった。それよりも脚の方が心配だった」と述べている。 天皇賞制覇のあと、脚部不安と負担重量の増加を嫌い、翌1956年秋まで約1年にわたって休養する。しかし当年、出走馬をファン投票で決めるオールスター競走・中山グランプリが新設されることが決まり、これを目標として復帰。67kgを負っての復帰初戦、続く阪神大賞典と連勝した。 中山グランプリのファン投票においてダイナナホウシユウは10位以内に入らず、推薦による出走となったが、7頭の八大競走優勝馬が顔を揃えたなかで、当日の人気ではメイヂヒカリに次ぐ2番人気となった。しかし競走前から脚部に異常の兆候がみられており、レース中の向正面で故障を発生。「四本の脚のうち三本までがいけなかった」(上田)という状態で12頭立ての11着に終わり、これを最後として競走生活から退いた。
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5-6歳時(1994-1995年)
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「ナリタタイシン」の記事における「5-6歳時(1994-1995年)」の解説
年が明けて5歳となった初戦の目黒記念では59.5kgを背負いながら大外直線一気を決めて皐月賞以来の勝利を挙げた。ビワハヤヒデとの一騎討ちとなった春の天皇賞では3コーナーから捲るという奇襲に出たが、ビワハヤヒデには敵わず2着に終わった。 完全復活したかに思われたナリタタイシンだったが、天皇賞(春)後は度重なる怪我に悩まされることになる。宝塚記念の前には右後脚に軽度の骨折が判明して休養。秋に復帰する予定だったが、京都大賞典は下痢で回避、さらに天皇賞(秋)の前には屈腱炎を発症し1年近く休養することになった。 6歳になり、宝塚記念で復帰。1年1か月ぶりの出走だったが16着に終わった。そして、高松宮杯へ向けて調整していた最中に屈腱炎を再発させ、そのまま引退した。
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5~6歳時
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/19 07:53 UTC 版)
明け5歳の初戦は、デビュー以来で2ヶ月という最長のレース間隔をあけて臨んだ東京新聞杯だったが7着。続くスプリンターズステークス(当時GIII)3着、京王杯スプリングカップ2着と勝ちきれないまま迎えた安田記念。ニホンピロウイナーが引退した事もあり混戦が予想され4番人気と穴人気にはなったもののギャロップダイナから約2秒離された7着に終わる。 夏も休養しないまま走り続け、大崩れはしないものの2 - 3着と勝ちきれないレースが続いた。そして秋のマイル王に向け、田島良保と新コンビを組みスワンステークスに出走。しかし4歳馬のニッポーテイオーの前に完敗。安田記念以来の複勝圏外の着順である4着に終わった。 そして迎えたマイルチャンピオンシップ。ニッポーテイオーが圧倒的な大本命の中、6番人気と安田記念同様に穴の一角の評価にとどまった。レースではニッポーテイオーがやや出遅れるという予想だにしない展開となったが、タカラスチールはさらに後方。これまでの好位につける競馬ではなく、末脚に賭ける戦法に出て4コーナーからニッポーテイオーとともに徐々に進出。内でもたつくニッポーテイオーを尻目に外から鋭く伸び、直線抜け出した。最後はニッポーテイオーとロングハヤブサの猛追を凌ぎきり悲願のGI制覇。1984年にグレード制が導入されて以降、初の牡牝混合GIでの牝馬によるGI制覇であった。また、この実績が評価され優駿賞最優秀5歳以上牝馬に選ばれた。 翌年も現役を続行したものの4戦して未勝利に終わり、京王杯スプリングカップを最後に現役を引退。3歳から休養らしい休養もあたえられないまま1ヶ月1戦のペースで32戦走り続けたが故障もなかった。
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