高濱虛子とは? わかりやすく解説

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高浜虚子

読み方:たかはまきょし
別表記:高濱虛子

「高浜虚子」とは、1874年明治7年愛媛県生まれた俳人および小説家である高浜清雅号ペンネーム)である。正岡子規師事し俳誌ホトトギス」の選者ならびに東京移転後主宰務めた1954年昭和29年文化勲章受章1959年昭和34年)没。

虚子」の読み方は「きょし」であり、これは本名「清(きよし)」に因む虚子(清)と同郷俳句の師である正岡子規によって名付けられたという。

「高浜虚子」の基本的な意味

高浜虚子は明治大正昭和三代にわたり、俳壇および文壇活躍した

俳風は、俳句標準的な型である「五七五」や「季語」を重視するどちらかといえば保守的な作風とされる

高浜虚子は「客観写生」および「花鳥諷詠」という理念掲げた。「客観写生」は、師・正岡子規の「写生」の理念発展させたもので、少な言葉客観的な描写行いつつ背後主観にじませるという考え方である。「花鳥諷詠」は、花鳥風月(自然の美しさ)やその中の人営み叙景的に詠むことである。これらの理念俳誌ホトトギス」の創作指導理念にもなり、多く優れた門弟育成貢献した

高浜虚子の代表的作品

高浜虚子は句集虚子句集」や、小説集「寸紅集」などを発表している。

俳句の代表作の例

「高浜虚子」に関連する用語の解説

高浜虚子記念館

「高浜虚子記念館」は、長野県小諸市にある「市立小諸高浜虚子記念館」の通称もしくは兵庫県芦屋市にある「虚子記念文学館」の通称である。

市立小諸高浜虚子記念館」は、長野県小諸市立てられ資料館である。高浜虚子が昭和19年から数年間、太平洋戦争戦火避けて疎開先として)移り住んでいた、という縁で当地建てられた。2000年開館。「虚子庵」と呼ばれる旧宅や、虚子直筆俳句当時の生活を偲ばせる資料など展示されている。冬期休館する

虚子記念文学館」は、芦屋市公益財団法人運営する文学資料館である。虚子実の孫であり俳誌ホトトギス主宰であった稲畑汀子自宅の隣に建てられた。こちらも開館2000年である。虚子まつわる諸々資料の他、虚子や「ホトトギス」にゆかりのある正岡子規夏目漱石に関する資料など展示されている。

なお、俳誌ホトトギス」の主宰2013年稲畑実子である(高浜虚子の曾孫にあたる)廣太郎に引き継がれている。廣太郎は「文学館」の設立当初理事就任2022年に汀子が逝去したことを受け「虚子記念文学館」の理事長館長廣太郎が引き継ぐこととなった

たかはま‐きょし【高浜虚子】

読み方:たかはまきょし

[一][1874〜1959俳人小説家愛媛生まれ本名、清(きよし)。正岡子規師事俳誌ホトトギス」を継承して主宰多く門下育てた句風客観写生花鳥諷詠に立ち、平明余情が深い。文化勲章受章。著「虚子句集」「五百句」、小説風流懺法(ふうりゅうせんぽう)」「俳諧師」など。

[二]大野林火による[一]評論昭和19年1944)刊。その後昭和24年1949)に増補版、昭和49年1974)には改訂新版刊行


高浜虚子


高浜虚子

高浜虚子の俳句

いつ死ぬる金魚と知らず美しき
おもひ川渡れば叉も花の雨
かわかわと大きくゆるく寒鴉
くはれもす八雲旧居の秋の蚊に
この庭の遅日の石のいつまでも
この里の苗代寒むといへる頃
これよりは恋や事業や水温む
すぐ来いといふ子規の夢明易き
たとふれば独楽のはじける如くなり
どかと解く夏帯に句を書けとこそ
なつかしきあやめの水の行方かな
はなやぎて月の面にかかる雲
ふるさとの月の港をよぎるのみ
ほろほろと泣き合ふ尼や山葵漬
むづかしき禅門出れば葛の花
ものの芽のあらはれ出でし大事かな
もの置けばそこに生れぬ秋の蔭
もの言ひて露けき夜と覚えたり
やはらかき餅の如くに冬日かな
やり羽子や油のやうな京言葉
ゆらぎ見ゆ百の椿が三百に
よろよろと棹がのぼりて柿挟む
わだつみに物の命のくらげかな
われが来し南の国のザボンかな
われの星燃えてをるなり星月夜
コスモスの花あそびをる虚空かな
コレラ怖ぢて奇麗に住める女かな
バス来るや虹の立ちたる湖畔村
一つ根に離れ浮く葉や春の水
一を知つて二を知らぬなり卒業す
一人の強者唯出よ秋の風
一切の行蔵寒にある思ひ
一切を抛擲し去り大昼寝
不精にて年賀を略す他意あらず
世の中を遊びごころや氷柱折る
亀鳴くや皆愚かなる村のもの
人生の台風圏に今入りし
何よりもとり戻したる花明り
何事も知らずと答へ老の春
兄弟の心異る寒さかな
先生が瓜盗人でおはせしか
其中に金鈴をふる虫一つ
冬帝先ず日をなげかけて駒ケ岳
凡そ天下に去来程の小さき墓に参りけり
初空や大悪人虚子の頭上に
初蝶を夢の如くに見失ふ
初蝶来何色と問ふ黄と答ふ
北風に人細り行き曲り消え
北風や石を敷きたるロシア町
去年今年貫く棒の如きもの
 

高浜虚子

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/07/29 17:00 UTC 版)

高浜 虚子
(たかはま きょし)
誕生 池内 清(いけのうち きよし)
1874年2月22日
日本愛媛県温泉郡長町新町(現在の松山市湊町)
死没 (1959-04-08) 1959年4月8日(85歳没)
日本神奈川県鎌倉市
墓地 寿福寺
職業 俳人小説家
国籍 日本
ジャンル 俳句小説
文学活動 ホトトギス
代表作 『虚子句集』
主な受賞歴 文化勲章
配偶者 高浜いと(1897年 - 1959年
子供 2男6女
高浜年尾(長男)
池内友次郎(次男)
真下真砂子(長女)
星野立子(次女)
新田宵子(三女)
高浜六(四女)
高木晴子(五女)
上野章子(六女)
親族 坊城中子(孫)
稲畑汀子(孫)
星野椿(孫)
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虚子の句碑(山名湖村・文学の森)
『撰集を 選みしよりの 山の秋』

高浜 虚子(たかはま きょし、旧字体高濱 虛子1874年明治7年〉2月22日 - 1959年昭和34年〉4月8日)は、明治大正昭和日本俳人小説家。本名は高浜 清(たかはま きよし、 旧字体高濱 淸)。旧姓は池内日本芸術院会員、文化功労者文化勲章受章者。

ホトトギス』の理念となる「客観写生」「花鳥諷詠」を提唱したことでも知られる。

経歴

愛媛県温泉郡長町新町(現在の松山市湊町)に旧松山藩士・池内 政忠(いけのうち まさただ)の五男として生まれた。9歳の時に祖母の実家の高浜家を継ぐ。この時、清に次男を得られたら池内家に戻す約束があり、次男の友次郎には約束通り、池内姓を継がせた。兄の池内信嘉能楽研究家である[1][2]

1888年(明治21年)、伊予尋常中学校(現在の愛媛県立松山東高校)に入学する。1歳上の河東碧梧桐と同級になり、彼を介して正岡子規に兄事し俳句を教わる。1891年(明治24年)、子規より虚子の号を授かる。「虚子(キシ)」の名は本名の「清(キシ)」に由来している。

1893年(明治26年)、碧梧桐と共に京都第三高等学校に進学する。この当時の虚子と碧梧桐は非常に仲が良く、寝食を共にしその下宿を「虚桐庵」と名付けるほどだった。1894年(明治27年)、三高の学科改変により碧梧桐と共に仙台の第二高等学校(後の東北大学教養部)に転入するも中退、上京して東京市下谷区根岸にあった子規庵に転がり込んだ。このころ虚子は学業よりも放蕩の時代であった。なかでも娘義太夫に入れあげ、そのなかの小土佐に「恋した」(河東碧梧桐『寓居日記』)。この娘義太夫については、自身の小説『俳諧師』でも思いがつづられている[3]1895年(明治28年)12月、自身の短命を悟った子規より後継者となることを要請されるも「アシは学問する気はない」と拒否した「道灌山事件」が起きた。

1897年(明治30年)、元は碧梧桐の婚約者であったが碧梧桐の入院中に親密になった大畠いと(糸子)と結婚した。1898年(明治31年)、萬朝報に入社するも、母の病気のため松山滞在中に長期欠勤を理由として除籍され、生活に困窮する。子規の協力を得て、前年に柳原極堂が松山で創刊した俳誌『ほとゝぎす(ホトトギス)』を引き継ぎ東京に移転、俳句だけでなく和歌散文などを加えて俳句文芸誌として再出発し、夏目漱石などからも寄稿を受ける。子規の没した1902年(明治35年)、俳句の創作を辞め、その後は小説の創作に没頭する。

1910年(明治43年)、一家をあげて神奈川県鎌倉市に移住する。以来、亡くなるまでの50年間を同地で過ごした。1913年大正2年)、碧梧桐に対抗するため俳壇に復帰する。このとき、碧梧桐の新傾向俳句との対決の決意表明とも言える句「春風や闘志抱きて丘に立つ」を詠んでいる。同年、國民新聞時代の部下であった嶋田青峰に『ホトトギス』の編集一切を任せる旨を表明した[4]

1937年昭和12年)、藝術院会員。同年12月24日大政翼賛会の肝いりで開催された文学者愛国大会では、宣戦の大詔を奉読するなど時流に合わせた活動も行った[5]1940年(昭和15年)、日本俳句作家協会(翌々年より日本文学報国会俳句部会)会長。 1944年(昭和19年)9月4日、太平洋戦争の戦火を避けて長野県小諸市に疎開し、1947年(昭和22年)10月までの足掛け4年間を小諸で暮した。 1949年(昭和24年)5月、高浜を含む日本芸術院会員9人が皇居に招かれ、午餐の御陪食を賜る。食後のお茶の席で『ホトトギス』創刊当時の思い出について語る[6]

1954年(昭和29年)、文化勲章受章、翌55年『虚子自伝』[7](朝日新聞社)を刊行。1959年(昭和34年)4月8日、脳溢血のため、鎌倉市由比ヶ浜の自宅で永眠[8][9]。85歳没。墓所は鎌倉市扇ガ谷寿福寺戒名は虚子庵高吟椿寿居士。忌日の4月8日を虚子忌、椿寿忌(ちんじゅき)という。生涯に20万句を超える俳句を詠んだとされるが、現在活字として確認出来る句数は約2万2千句である。

2000年平成12年)3月28日、疎開先旧宅である小諸市与良町の「虚子庵」に小諸高濱虚子記念館が開館した。同年4月には、兵庫県芦屋市虚子記念文学館が開館した。

作家評

子規の没後、五七五調に囚われない新傾向俳句を唱えた碧梧桐に対して、虚子は1913年(大正2年)の俳壇復帰の理由として、俳句は伝統的な五七五調で詠まれるべきであると唱えた。また、季語を重んじ平明で余韻があるべきだとし、客観写生を旨とすることを主張し、「守旧派」として碧梧桐と激しく対立した。そしてまた、1927年(昭和2年)、俳句こそは「花鳥諷詠」「客観写生」の詩であるという理念を掲げた。

しかしまた反面、1937年(昭和12年)1月に碧梧桐が危篤に陥ると見舞いに駆け付けたほか、死去直後には新聞に碧梧桐との思い出を寄稿。出だしに「最近は俳諧上の意見の問題やらなんやらで昔ほどでもなかったが、おそらく私と碧梧桐ほど親しい仲はちょっとなかったろうと思う」と記した[10]。亡くなった翌年の1937年(昭和12年)には、かつての親友であり激論を交わしたライバルの死を悼む句「たとふれば独楽のはぢける如くなり」を詠んでいる。

俳壇に復帰したのち、虚子つまり『ホトトギス』は大きく勢力を伸ばし、大正、昭和期(特に戦前)は、俳壇即『ホトトギス』であったといえる。虚子は俳壇に君臨する存在であった。

『ホトトギス』からは飯田蛇笏水原秋桜子山口誓子中村草田男川端茅舎松本たかしなどを輩出している。

代表作・作品集

  • 遠山に日の当たりたる枯野かな
  • 春風や闘志抱きて丘に立つ
  • 去年今年貫く棒の如きもの
  • 道のべに阿波の遍路の墓あはれ
  • 波音の由井ガ濱より初電車
  • 吾も亦紅なりとひそやかに
  • 子規逝くや 十七日の 月明に
  • 流れ行く大根の葉の早さかな
※虚子の作品は2009年12月31日に著作権が消滅、2010年1月1日よりパブリックドメインに入った。度々文庫再刊もされた。
  • 『定本 虚子全集』全11巻、創元社、1948-50年
  • 『定本 高濱虚子全集』全16巻、毎日新聞社、1973-75年

句集

  • 『虚子句集』(昭和3年(1928年)6月、春秋社) 虚子初めての句集
  • 『五百句』(昭和12年(1937年)6月、改造社) 『ホトトギス』500号記念の年に自選して上梓
  • 『五百五十句』(昭和18年(1943年)8月、桜井書店) 『ホトトギス』550号記念の年に自選して上梓
  • 『六百句』(昭和22年(1947年)2月、菁柿堂) 『ホトトギス』600号記念の年に自選して上梓
  • 『六百五十句』(昭和30年(1955年)6月、角川書店) 『ホトトギス』650号記念の年に自選して上梓
  • 『七百五十句』(昭和39年(1964年)) 『六百五十句』以後の句を虚子没後に上梓
  • 『虚子俳話』(昭和33年(1958年)2月、東都書房) 『朝日新聞』に連載した「虚子俳話」をまとめて刊行
  • 『句日記』(1巻目:昭和11年(1936年)11月、改造社~最終6巻目:昭和35年(1960年)6月、新樹社)
  • 『虚子百句』(昭和33年(1958年)12月、便利堂)[11] 100句を選び短冊に揮毫、ほぼ同じサイズに印刷した大作。年尾・立子の解説つき。

小説集・創作集

  • 『寸紅集』(明治33年(1900年)12月、ホトトギス発行所) 正岡子規との共編による写生文集
  • 『帆立貝』(明治39年(1906年)12月、俳書堂) 坂本四方太との共編による写生文集。虚子はこれを機に小説に傾いてゆく。
  • 『鶏頭』(明治41年(1908年)1月、春陽堂
  • 『俳諧師』(明治42年(1909年)1月、民友社出版部)、同年9月に『続俳諧師』
  • 『柿二つ』(大正5年(1916年)5月、新橋堂)
  • 『伊予の湯』(大正8年(1919年)4月、秀美社)
  • 『虹』(昭和22年(1947年)12月、苦楽社)
  • 『椿子物語』(昭和26年(1951年)9月、中央公論社)

文学館

虚子記念文学館

栄典

高浜虚子の一族・姻戚

  • 高濱年尾 - 虚子の長男。俳人。「ホトトギス」三代主宰。
  • 池内友次郎 - 虚子の次男。作曲家、音楽教育家、俳人。回想(下記参照)を刊行。
  • 星野立子 - 虚子の次女。俳人。「玉藻」初代主宰。
  • 高木晴子 - 虚子の五女。俳人。「晴居」主宰。
  • 上野章子 - 虚子の六女。俳人、随筆家。「春潮」二代目主宰。
  • 稲畑汀子 - 虚子の孫(年尾の次女)。俳人。「ホトトギス」四代目主宰、日本伝統俳句協会初代会長。
  • 星野椿 - 虚子の孫(立子の子)、祖父は星野天知。俳人。現「玉藻」名誉主宰。
  • 坊城中子 - 虚子の孫(年尾の長女)。俳人。「花鳥」二代目主宰。
  • 遠藤郁子 - 虚子の次男・友次郎の元妻。ピアニスト。
  • 星野天知 - 虚子の次女、立子の義父。作家。『女学生』主筆、『文学界』創刊編集人。
  • 新田義美 - 虚子の三女・宵子の夫。男爵新田岩松家の当主。
  • 上野泰 - 虚子の六女・章子の夫。俳人。「春潮」初代主宰。
  • 坊城としあつ - 虚子の孫・中子の夫。俳人。本名は俊厚。坊城家
  • 藤島泰輔 - 虚子の孫・朋子の元夫。小説家、評論家。
  • 宇佐美承 - 虚子の孫・公子の夫。ノンフィクション作家。
  • 稲畑廣太郎 - 虚子の曾孫(汀子の子)。俳人。現「ホトトギス」主宰。
  • 星野高士 - 虚子の曾孫(椿の子)。俳人。現「玉藻」主宰。
  • 坊城俊樹 - 虚子の曾孫(中子の子)。俳人。現「花鳥」主宰。
  • 星野愛 - 虚子の玄孫 (高士の子) 。 俳人、政治家。 現「玉藻」同人、日本維新の会所属。

脚注

  1. ^ 池内『能楽盛衰記 上卷「自序」』、10-13頁https://dl.ndl.go.jp/pid/1869560/1/19 
  2. ^ 週刊文春2024年3月21日号117頁「阿川佐和子のこの人に会いたい」
  3. ^ 倉田喜弘『明治大正の民衆娯楽』(岩波新書)154ページ
  4. ^ 秋元(1966):130ページ
  5. ^ 「文壇・詩壇・歌壇の三百五十人が参加」『東京朝日新聞』1937年(昭和12年)1月19日(昭和ニュース編纂委員会『昭和ニュース事典第7巻 昭和14年-昭和16年』本編p705 毎日コミュニケーションズ刊 1994年)
  6. ^ 宮内庁『昭和天皇実録第十』東京書籍、2017年3月30日、814頁。ISBN 978-4-487-74411-4 
  7. ^ 2024年に『新編 虚子自伝』(岸本尚毅編、岩波文庫)が刊。1948年刊の旧編(青柿堂)と併せた版。
  8. ^ 服部敏良『事典有名人の死亡診断 近代編』付録「近代有名人の死因一覧」(吉川弘文館、2010年)17頁
  9. ^ 岩井寛『作家の臨終・墓碑事典』(東京堂出版、1997年)184頁
  10. ^ 碧梧桐と私『中外商業新報』昭和12年2月3日(『昭和ニュース事典第6巻 昭和12年-昭和13年』本編p85 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年
  11. ^ 岩波書店で新装復刊(2010年5月)

参考文献

回想・伝記

外部リンク




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