池内信嘉とは? わかりやすく解説

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池内信嘉

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/06/15 16:35 UTC 版)

池内 信嘉(いけのうち のぶよし、1858年3月21日安政5年2月7日) - 1934年5月17日)は、能楽研究家。

年譜

伊予国松山(現・愛媛県松山市)で、松山藩の剣術監である池内信夫(荘四郎政忠)、リウ夫妻の3男として松山城下の長町新丁(現、港町4丁目)に生まれる。幼名、嘉源次、後に号を如水・如翠とした。6男の清は後年高浜家を継いだ(俳号虚子)。松山は能が盛んな所だった。

1869年(明治2年)旧浩久松家の東京移住に付き、献能の催しがあり、初めて能楽「安宅」の判官と 「皇帝」の子方を勤めた。能楽に足を踏み入れた発端であるという。 1874年(明治7年)秋、家禄奉還に伴い、父に従い、風早郡別府村大学柳原の町外れ字西の下に郷居し農業に従事する。

1876年(明治9年)3月、愛媛県立師範学校創立に付き、選抜生として入学する。1877年(明治10年)3月、愛媛県立師範学校卒業。10月、愛媛県野間郡聯区監視を命じられる。

1878年(明治11年)3月、教員講習所教師を命じられる。

1879年(明治12年)3月、職を辞し、4月上京。高等師範学校入学準備のため、本郷湯島の周徳舎に入り漢学を修業。中途、学資欠乏のため目的を達することできず。

1880年(明治13年)群馬県北甘楽郡相田村相相田小学校に奉職する。群馬県7日市にあって養蚕業 を見て、故郷で養蚕事業を興すべく志し教職を辞して、七日市町の養蚕家で養蚕と製糸の修業をする。

1882年(明治15年)松山に帰り、数人の賛助を得を得て、松山養蚕会社を起こし幹事となる。

1886年(明治19年)愛媛県野間郡選出の県会議員に選ばれる。

1887年(明治20年)県庁の命により東京西ヶ原養養蚕伝習所に入り、微粒子毒検査法と養蚕業を学ぶ。

1888年(明治21年)西ヶ原養蚕伝習所を卒業し帰郷。愛媛県養種検査員を命じられる。

1889年(明治22年)松山養蚕会社社長となる。

1890年(明治23年)松山養蚕会社社長を辞職、愛媛新報社主筆に就任。

1894年(明治27年 )松山市市会議員となる。

1896年(明治29年 )愛媛温温泉郡郡会議員となり、同議長及び郡参事会員となる。同年、愛媛県温泉郡選出県会議員となり、ついで県参事会員となる。

1897年(明治30年)3月伊予鉄道株式会社支配人に就任。

1902年(明治35年)3月、伊予鉄道株株式会社支配人を辞し、5月に上京。能楽の前途を憂えての決断で、かねてより能楽維持のため働いてみたいとの希望を持っていて、松山の藤野漸と在京の高浜虚子以外の親族・友人のほとんどが東京移住を不可として諫止するも願みず、「当時17歲の娘と14歳の伜(崔・池)と3人で書生 暮しをする決心で」(「回顧貳拾年)、一切をなげうっての上京だった。後半生を能薬に捧げる起端である。 上京に先立ち、雑誌発行と能楽倶楽部組織について、あらかじめ書面を以て古市公威大和田建樹、某能楽師の3人に交渉した。

能楽館を設立して雑誌「能楽」を発行。

1923年東京音楽学校に能楽囃子科が設置され、同校の嘱託教師となり、のち教授。能楽会理事[1]

著作

単著

共著編

著作年表

脚注

  1. ^ 日本人名大辞典『能楽盛衰記』復刻版解説

参考文献




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