観梅問題
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/20 03:54 UTC 版)
観世流では明治以来、維新直後の混乱に端を発して、初世梅若実、観世銕之丞(紅雪)といった有力者が独自に免状を発行するなど家元同然の活動を行い、流派が「家元派」と「梅若派」に別れて対立する状態にあった(いわゆる観梅問題)。 元滋の家元相続前後から、実父・元義などが是正に動いたが不調に終わり、なおも実・紅雪の子である梅若万三郎・六郎兄弟、観世銕之丞(華雪)が独自の免状を発行する「不自然な」状況が続いていた。 1917年(大正6年)、能楽会会頭になった徳川家達は問題の解決を目指し、それを受け池内信嘉は「梅若流独立」の線での解決を両派に提示した。元滋は父を含む反対派を説得してこれを受け入れることを決断、1920年(大正9年)話し合いが持たれるものの結論は出ず、その間に有力者3人を抱える梅若派内の対立、脇方・囃子方・狂言方三役からの強硬な反対もあって議論は決裂する。 結局翌年、元滋は梅若派を除名し、観世銕之丞とは芸事上の交際を絶つ旨を諸方面に通達する。梅若派は銕之丞とともに梅若流を設立するが、三役と対立した状況では満足な活動も出来ず、1929年(昭和4年)に観世銕之丞が、1932年(昭和7年)には梅若万三郎が観世流に復帰した。円満な解決には失敗したものの、自ら難問に中心となって取り組んだことは元滋の声望を著しく高めた。またその後の両人の復帰にも力を尽くしている。
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