梅若万三郎と
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/20 03:54 UTC 版)
当時の名人であった初世梅若万三郎は家元継承直後の後見人であり、病床の養父・清廉からも、万三郎を目標とするように、と教えを受けていた。花やかな芸風で名人と謳われた万三郎の牙城に、左近は持ち前の気品と幽玄な芸を以て挑み続けた。 一方で左近は観梅問題が決裂し、除名処分を行った後も万三郎に会うと「師匠」と呼び、万三郎が人に聞かれると困るから、と止めても、「稽古をうけたのだから師匠とよばしてくれ」と譲らなかったという。「親父か祖父のやうに」慕ってきた左近の死を、万三郎は自分の息子を亡くした時のようだ、と悼んでいる。
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