能楽界の指導者としてとは? わかりやすく解説

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能楽界の指導者として

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/09 10:15 UTC 版)

宝生九郎知栄」の記事における「能楽界の指導者として」の解説

1885年門弟松本金太郎自宅能舞台を建て、以後「温古会」(宝生会の前身)として演能活動を行う。 九郎後進育成にも熱心であり、その門下からは、松本長野口兼資近藤乾三高橋進田中幾之助といった名手輩出した。また自流のみならず金春流桜間伴馬嗣子金太郎(後の桜間弓川)を宝生会に出演させ、修業を積ませたことも知られている。さらには川崎九淵三須錦吾・三須平司・幸祥光囃子方への後援を行うなど、その見識広さもあって、能楽界の指導者として畏敬集めた1906年古稀祝って安宅 延年之舞」を舞うが、これを最後に以後は謡のみの活動となり、後進の指導専念することとなった。ただし1910年前田侯爵邸で明治天皇臨席の下催された能では、特別に舞囃子雲雀山」を舞っている。この際には、九郎の舞を一目見ようと、楽屋能楽師たちが人垣をなして舞台覗いていたという。 1915年大正4年)、大正天皇即位式に際して宮中行われた大典能では、池内信嘉とともにその準備中心担ったこの際九郎に「翁」を務めることを勧めるものも多かったが、固辞したという。 1917年3月9日死去80歳。野口兼資によれば最期の床にあっても、炬燵入って稽古続けていたという。 実子はなく、養嗣子定めていた豊喜も早世している。一時松本長後継者となったが、最終的に分家である宝生内の子・勝が養子となって後を嗣いだ。これが17世宗家宝九郎重英である。

※この「能楽界の指導者として」の解説は、「宝生九郎知栄」の解説の一部です。
「能楽界の指導者として」を含む「宝生九郎知栄」の記事については、「宝生九郎知栄」の概要を参照ください。

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