連邦刑務所時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/30 02:12 UTC 版)
アルカトラズ島刑務所 所在地カリフォルニア州サンフランシスコ湾 座標北緯37度49分36秒 西経122度25分24秒 / 北緯37.8266度 西経122.4233度 / 37.8266; -122.4233 現況閉鎖(現在は博物館) 警備レベルMaximum 許容人数312人 開設1934年1月1日 閉鎖1963年3月21日 管理運営アメリカ合衆国司法省連邦刑務所局 所長刑務所長ジェームス・A・ジョンストン(1934年–1948年)エドウィン・B・スロープ(1948年–1955年)ポール・J・マディガン(1955年–1961年)オーリン・G・ブラックウェル(1961年–1963年) テンプレートを表示 .mw-parser-output .tmulti .thumbinner{display:flex;flex-direction:column}.mw-parser-output .tmulti .trow{display:flex;flex-direction:row;clear:left;flex-wrap:wrap;width:100%;box-sizing:border-box}.mw-parser-output .tmulti .tsingle{margin:1px;float:left}.mw-parser-output .tmulti .theader{clear:both;font-weight:bold;text-align:center;align-self:center;background-color:transparent;width:100%}.mw-parser-output .tmulti .thumbcaption{background-color:transparent}.mw-parser-output .tmulti .text-align-left{text-align:left}.mw-parser-output .tmulti .text-align-right{text-align:right}.mw-parser-output .tmulti .text-align-center{text-align:center}@media all and (max-width:720px){.mw-parser-output .tmulti .thumbinner{width:100%!important;box-sizing:border-box;max-width:none!important;align-items:center}.mw-parser-output .tmulti .trow{justify-content:center}.mw-parser-output .tmulti .tsingle{float:none!important;max-width:100%!important;box-sizing:border-box;align-items:center}.mw-parser-output .tmulti .trow>.thumbcaption{text-align:center}} 1962年の脱獄事件で壁に開けられていた穴(上)と、ベッドに置かれていたダミーの頭(下)。 詳細は「en:Alcatraz Federal Penitentiary」を参照 島はアメリカ軍から連邦司法省刑務所局に移管され、刑務所局は1934年7月1日、アルカトラズ連邦刑務所を開設した。大恐慌や禁酒法により1920年代末から1930年代にかけて組織犯罪が激化し、治安当局は、犯罪に対する強い姿勢を打ち出す必要があり、アルカトラズ島はそのために「社会の敵」である凶悪犯を収容する施設という役割を担った。 1934年4月から、脱走対策を万全にするため、軍事刑務所の設備に手が加えられた。格子は柔らかい素材から、道具を使っても破壊できないものに取り替えられ、受刑者が逃げ隠れできる可能性のあるトンネル等はすべてセメントで埋められた。監房を取り巻くように、武装した看守の監視拠点である「ガン・ギャラリー」が、受刑者を見下ろす高所に設けられた。ガン・ギャラリーは鉄柵で防御されていた。独房の鍵はこれ見よがしにガンギャラリーの外側に、見えるところに吊されていた。食堂の天井には催涙ガスの噴射装置が取り付けられ、ガン・ギャラリー又は外部の監視場所からの遠隔操作で噴射できるようになっていた。全部で600近くの監房があったが、どの監房も建物の外壁とは接しないようになっていた。 この刑務所に収容されていた人員は、常時およそ260人から275人であり、連邦刑務所全体の収容人員から見れば1%にも満たなかった。後述のように受刑者にとっては非常に規律の厳しい刑務所ではあったが、必ず1人につき一つの監房が与えられ、食事の質も高いなど収容環境は他の連邦刑務所と比べて悪くなかったため、アルカトラズ刑務所への移送を希望する受刑者すらいた。 アルカトラズ島に服役した受刑者の中には、有名な者も多い。ロバート・フランクリン・ストラウドは、殺人罪でカンザス州レブンワースの刑務所に服役中に看守を殺害して死刑判決を受けた後、母親の嘆願により1920年終身刑に減刑され、1942年アルカトラズ連邦刑務所に移送され、1959年イリノイ州の連邦刑務所へ移送されるまでの17年間をここで過ごした。レブンワース刑務所でカナリアを飼ってその病気について研究し、本も書いていたことから「バードマン」(鳥人間)というあだ名で知られたが、同刑務所で、研究の名目で手に入れた道具を酒の密造に使おうとしていたことが発覚するなどしてカナリアの飼育が禁止され、アルカトラズ時代には鳥を飼ってはいなかった。著名なギャングであるアル・カポネ、ジョージ・“マシンガン”・ケリーなどもここに収容されていた。そのほか、他の刑務所で規則を遵守しない者、暴力的行為を行った者、脱走の危険があると考えられた者などがここに送られた。なお、受刑者がこの刑務所で規則に従い一定期間問題なく過ごせていると判断されれば(平均期間は5年間だったという)他所にある連邦刑務所に移送され、そこで釈放の手続きが取られた。 刑務所長であるジェームス・A・ジョンストンは「最小限の特典、最大限の警備」を掲げ、所内の治安確保に乗り出した。事実、所内では食糧、衣服、居住、医療の四つは権利として与えられていたが、それ以外のもの――仕事、面会、図書室の利用、レクリエーション(絵を描く、楽器を演奏する)など――はすべて「特典」であって、努力によって獲得するものとされた。 面会は月に一回、親族もしくは所長の許可を得た者に限られ、面会時間は2時間程度だった。受刑者が所内の様子や規則を話すことは禁じられていた。 図書室は最大で約1万5千冊の書籍と雑誌が保管されていた(多くの書籍は前身の軍事刑務所の時代に寄贈されたものである)。受刑者が直接書架から蔵書を閲覧することはできず、各監房に置かれた蔵書目録から各人が保有する図書カードに閲覧を希望する書籍の名称を記入して箱に投かんした。その後、図書係が書籍をワゴンに乗せて各監房に配布した。同時に3冊までの所有が許されており、その他に聖書と辞書、最大で12冊の教本を保有することができた。本を読むことができる時間は午後5時半から消灯の午後9時半までであった。新聞を読むこと自体は許可されないことはなかったが、他の刑務所からの脱走を報じる記事があると切り取られていた。 手紙は週に2通送ることが許されていた。検査官による内容の検閲が行われており、受刑者が読むべきでない、もしくは外部の者に伝えることが不都合な部分は黒く塗りつぶされた。 連邦刑務所時代には、14回の脱獄事件が起き、それに関与した受刑者は36人である(うち2人は2回脱走を試みた者)。このうち23人は身柄を確保され、6人は射殺され、2人は溺死した。5人は行方不明であるが、溺死したものと推測されている。1946年3月に起きた脱獄事件は「アルカトラズの戦闘」として知られる。6人の受刑者が看守を襲って武器と監房の鍵を手に入れたが、運動場への鍵を見付けることができず脱出に失敗し、当局との銃撃戦の末、2日後に制圧された。6人のうち3人は死体で発見され、残りの3人は裁判にかけられてうち2人はガス室に送られた。この事件で看守も2人が死亡し、約18人が負傷した。1962年6月11日、フランク・モリスとアングリン兄弟が監房から消えるという有名な脱獄事件(1962年6月のアルカトラズ脱獄事件)が発生した。手製のドリルで通気孔が広げられており、夜の見回り時に気付かれないよう、ベッドには作り物の人間の頭が置かれていた。壁の後ろのパイプなどを伝って建物から脱出し、島の北東部から手製のいかだで脱出を図ったと見られているが、島外にたどり着いたかは不明である。この脱獄劇は、後にクリント・イーストウッド主演の映画『アルカトラズからの脱出』に描かれた。 図らずもモリス達の逃亡はアルカトラズがもはや刑務所としての体をなしていないことを明らかにした。潮風による施設の老朽化が激しく、サンフランシスコ周辺は地震の地域であるため耐震性にも問題があると指摘され、修繕・維持費用だけで300万ドルから500万ドルかかったとされる。それに加え日々の運営費用も他の連邦刑務所と比べ高額であった(1959年当時、囚人1人当たりのコストはアトランタ刑務所で3.00ドルであったのに対しアルカトラズでは10.10ドルに上った)。これは、食糧や水を始めとするあらゆる物資を船で輸送していたためである。例えば水については100万ガロンを1週間に1度艀に乗せて輸送しなければならなかった。1962年の秋から受刑者は他の連邦刑務所に移送されていき、1963年3月21日にアルカトラズ刑務所は閉鎖された。
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