連邦再編から再独立へとは? わかりやすく解説

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連邦再編から再独立へ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/16 14:45 UTC 版)

モンテネグロの歴史」の記事における「連邦再編から再独立へ」の解説

2003年には、議論外部支援ののち、ユーゴスラビア連邦共和国セルビア・モンテネグロ改名し、公式に緩やかな国家連合再編された。この再編では、最低3年統合期間を経れば独立容認されることになっており、モンテネグロ人のいっそうの自立心成長させるものであった。 ジュカノヴィッチが大統領就任したころから分離独立示唆が行われて来ていたが、急激な独立運動行われずモンテネグロ政府連邦脱退には慎重の姿勢取ってきた。しかし、2005年セルビア外相分離独立容認発言をしたことなどから、実質的に分離独立における障害なくなった。すでに通貨独自にユーロ導入しており、失業率セルビア30パーセント以上に対してモンテネグロ20パーセントインフレ率抑えられており、経済的に独立阻止できる材料セルビア側に無かった2006年にはモンテネグロ独立を問う住民投票計画された。独立推進派は「欧州連合EU早期加盟独立近道と言うスローガン掲げ反対派は「独立して早期加盟不可能、市場の縮小景気悪化する」として阻止図った一方独立運動によって地域が再び不安定化することを恐れたEUは、通常ならば過半数独立達成ところを55パーセント以上という条件突きつけた。しかし、5月21日実施され国民投票では、セルビア人のほとんどが反対票を投じたが、55.4パーセントという僅差ながらも独立賛成票が上回り独立承認された。 6月3日夜、共和国議会によって独立宣言採択されユーゴスラビア併合され1918年以来、実に88年ぶりに独立回復した。かつてバルカン半島勢力築いたユーゴスラビア連邦は、これで完全に解体された。 独立際しモンテネグロ日本戦争状態が日露戦争以降続いているかについて、日本の国会で採り上げられた。2006年2月日本政府1904年モンテネグロによる宣戦布告に関する文書を見つけられないこと、ポーツマスでの講和会議モンテネグロ参加していないことを回答していた。実際に日露戦争時モンテネグロロシア側に立ち、1905年日本宣戦布告しロシア軍とともに戦うため義勇兵満州派遣していたが、日本とロシア講和会議モンテネグロ含まれていなかったため、書類上は戦争状態が続いていることになっていた。 もっとも、モンテネグロ実際に宣戦布告していたか、宣戦布告正規のものだったかどうかは、異説がある。しかしながら独立直後2006年6月日本政府モンテネグロ外務大臣首相特使派遣しモンテネグロ独立承認戦争状態の終了宣言する文書届けた。これにより、101年に渡る両国の「戦争状態」が終わった。(参考:外交上の終結まで長期にわたった戦争の一覧) 2007年10月新憲法制定し国名モンテネグロ共和国からモンテネグロ変更した

※この「連邦再編から再独立へ」の解説は、「モンテネグロの歴史」の解説の一部です。
「連邦再編から再独立へ」を含む「モンテネグロの歴史」の記事については、「モンテネグロの歴史」の概要を参照ください。

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