連邦共和国成立以後
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「ゲッティンゲン」の記事における「連邦共和国成立以後」の解説
戦中・戦後の混乱によりこの街の人口は急激に増加した。1939年のゲッティンゲンの人口は約5万人であったが、1949年には8万人となっており、この当時ドイツ最大の人口密集都市の一つとなっていた。このため、他の都市のように合併により面積を拡げるような19世紀の工業化プロセスを採ることができなかった。戦争直後にはまずヴェストシュタット(西側の街)の建設が最優先された。 1957年4月12日に「ゲッティンゲン宣言」が発表された。これは、当時の連邦共和国首相コンラート・アデナウアーが提唱した戦術核兵器による武装に対し、カール・フリードリヒ・フォン・ヴァイツゼッカー主導の下でマックス・ボルン、オットー・ハーン、ヴェルナー・ハイゼンベルク、マックス・フォン・ラウエといったノーベル賞受賞者を含む18人の原子物理学者や核物理学者が、反対の警告を発したものである。この「ゲッティンゲンの18人」(既述のゲッティンゲン大学七教授事件の「ゲッティンゲンの7人」にちなんでこう呼ばれる)の発言は功を奏し、アデナウアーの構想はこの時点では撤回された。 遅れていた市町村合併と工業化は1964年6月26日のゲッティンゲン法によって動き始めた。ガイスマー、グローネ、ニコラウスベルク、ヴェーンデといった町が市に合併された一方、ゲッティンゲン市はゲッティンゲン郡に編入された。それでもゲッティンゲンは郡内で特別な地位を保ち、州法やその他の法律に抵触しない範囲においては郡独立市の規則が引き続き適用されるとされた。この合併によりゲッティンゲンの市域は2倍以上の 7371 ha となり、人口は83,000人から約31%増加して109,000人となった。これに伴って新しい住宅地が整備され、新しい市区が設けられた。 こうして近代的な大都市へ発展するためのポイントは用意された。1970年代の大規模計画は、古い大学都市の特色を残しながら、南ニーダーザクセン地方全域の上級中心都市としての都市開発を行うという計画であった。最も重要なステップは1968年に行われたヴェーンデ通りの大学乗馬場(1735年建造)の解体であった。これに対して学生や市民は激しい反対を示した。1966年から1975年の間に市内中心部の通りの多くが歩行者専用区域に改造され、1978年に新しい市庁舎が建設された。もともと乗馬場の解体はこの新市庁舎のためであったのだが、その後全然違う場所である旧市街の南東部に建設されることとなった。乗馬場跡地には市庁舎の代わりにショッピングセンターと短命に終わった市営プール(長らく放置された後、2004年頃に解体された)が建設された。 都市と同様に拡大した大学も近代化がなされた。学生数は、1945年/1946年の冬学期の 4,680人から1990年代初めには 3万人にまで増加したが、その後減少傾向にある。1964年に現在のキャンパスと、旧市街北側の大学スポーツセンター跡に人文科学センターが建設された。ヴェーンデとニコラウスベルクとの間にノルト=ウニが建設され、現在ここに自然科学系施設の大部分がある。さらに1973年から新しい大学病院の建設が始まった。最後に、1993年に建築上の要求が難しい州立・大学図書館の新棟が開館した。 1989年の東西国境開放と1990年の東ドイツの連邦加盟により、ゲッティンゲンは国境地域の街ではなくなり、ドイツ中部の交通の便がよい立地となった。しかし一方では、1993年の連邦軍移転につながった。これは軍事都市としての伝統豊かな歴史が終結したというばかりではなく、重要な経済因子が失われたことをも意味した。 1968年にゲッティンゲンでも学生運動が起こった。ここでは、他所ほど急速に終結しなかった。1990年代の初めにも反ファシスト運動のいわゆる「シェルベンデモ」や、左翼過激派団体ブラック・ブロックが主導する反極右思想の連帯デモンストレーションのために、新聞の大見出しになっている。1990年以降現在までほぼコンスタントに左翼過激派が多くの活動を行っており、全国的に報道の注目を集める。 2010年6月1日、ゲッティンゲンの祝祭広場で第二次世界大戦から65年を経過した古い不発弾の信管を抜く作業で3人が死亡、2人が重傷、4人が軽傷を負った。死傷者はすべて爆弾処理の準備作業中であった。
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