連邦判事、学術研究
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「ジョン・フォレスト・ディロン」の記事における「連邦判事、学術研究」の解説
連邦判事の職にあった時期に、ディロンは基礎自治体の構成に関する最も初期のまとまった研究のひとつである『Municipal Corporations』(1872年)を著した。1876年には、『Removal of Cases from State Courts to Federal Courts』と『Municipal Bonds』を刊行した。1876年2月17日、ウイスキー汚職事件の裁判で、ディロンは、グラント大統領がオーヴィル・E・バブコック(英語版)を弁護する形で提出した宣誓証書(英語版)について、法的に容認されるという判定を下した。巡回裁判所判事を退任した後は、1879年から1882年までコロンビア・ロー・スクールの教授となり不動産やエクイティ(衡平法)について講じた。1891年から1892年にかけてはイェール・ロー・スクールで教鞭を執り、この時期には、アメリカ法曹協会会長も務めた。その後、ディロンは、1914年にニューヨークで死去するまで、弁護士としての活動を続けた。 アイオワ州ダベンポートの中心市街地には、1918年にディロン・メモリアルとして、ロマネスク様式のインディアナ州産石灰岩に、彫刻家ハリー・リヴァ (Harry Liva) が彫刻を施した石柱が建てられた。 1853年、ディロンはアンナ・マージェリー・プライス(Anna Margery Price、1835年6月19日生まれ)と結婚した。夫妻の間には、2男1女が生まれた。妻のアンナと、娘のアニー・ディロン・オリヴァー (Mrs. Annie Dillon Oliver) は、1898年7月のフランスの客船「ラ・ブルゴーニュ」の沈没事故の犠牲となった。 ディロンの長男ハイラム・プライス・ディロン(Hiram Price Dillon、1855年 - 1918年)は、アイオワ州で弁護士となり、連邦裁判所の公文書保管所長 (Master of Chancery) となった。ジョン・F・ディロンの妹はアイオワ州ダベンポートの商人ジョン・B・ジョーダン (John B. Jordan) に嫁いだ。夫妻の間に生まれた娘ジェニー (Jennie) は、ルイス・ステンゲル (Louis Stengel) と結婚し、この夫婦の間の息子として生まれ、大伯父である判事にあやかって名付けられたチャールズ・ディロン・"ケーシー"・ステンゲルは、野球界で選手、指導者として長く活躍した。
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