詩作活動とは? わかりやすく解説

詩作活動

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/11/14 22:58 UTC 版)

桜井哲夫 (詩人)」の記事における「詩作活動」の解説

1983年昭和58年)、当時栗生楽泉園園長詩集出版の手伝い依頼され園内詩人団体である栗生詩話会に入会ハンセン病問題にも取り組む詩人村松武司らの指導を受け、失明前の記憶頼りに、故郷風景などを詠んだ詩の創作開始した詩作通じてさらに文学傾倒し神学学び聖書読み漁った。その中でも特に、国際らい学会事務局長であるスタンレーG・ブラウン英語版)には大きな影響受けた1985年昭和60年)に受洗しカトリック教徒となった。ただし「教会真面目くささが嫌い」「声が出ないから讃美歌歌えるわけでもないと言い教会には年に一度行けば良い方だった受洗動機は、聖書賛美歌身近なものにし、口語体の詩の韻を知りたいためと語っていた。 1988年昭和63年)、亡き娘への想いなどを綴った初の詩集津軽の子守唄』を刊行次いで栗生詩話会の選者1人であった斎田朋雄助言のもと、1991年平成3年)に詩集ぎんよう』を刊行前述村松武司1993年平成5年)に死去した後、桜井村松深く傾倒していたことから、村松への追悼を主とした詩集無窮花抄』を翌1994年平成6年)に刊行した前述のような視覚や指の障害加え皮膚感覚もほとんど失われていたために点字を打つこともできず、頭の中で組み立てた文章をほかの人が代筆することによる詩作であった詩集による収益は、それまでに貯めた年金合せタイハンセン病コロニー貯水池新設のために寄付した日本国外ハンセン病患者たちとの共生への願い理由であった。後にはアフガニスタン支援としてペシャワール会への寄付日本国外難民支援を行う教会への献金などの社会貢献果たした1995年平成7年)、栗生詩話会の選者務めていた森田進当時教え子1人在日韓国人3世女学生金正美知り合った交流重ね、後に祖父と孫も同然間柄となったまた、金が後述遠出の際に同行して身の回り世話をしたり、声帯侵されている桜井に代わって声を出したりと、重要なサポート役となることで、行動範囲広がった。翌1996年平成8年)、唯一の自伝小説盲目王将物語』を刊行1999年平成11年)、前述タイへ支援の礼としてタイハンセン病コロニーから招待されタイ旅行出発。翌2000年平成12年)、その体験をもとにした詩集タイ蝶々』を刊行した2001年平成13年)、金正美写真家権徹後述)の協力のもと、大韓民国釜山広域市出発亡き妻の父水豊ダム建設携わっており、その建設作業駆り出され多く韓国労働者ダムの底に眠っているといわれたことから、その謝罪の旅であった現地ではハンセン病定着村など訪問し、会う人ごと謝罪繰り返した。また新羅大学校日本文学科で詩と哲学についての講義行ない学生たちは涙を流しながら桜井の話に聞き入っていたという。帰国直後入院し生死賭けた手術を受けるが、その病床の中、日本国民としての韓国・朝鮮への贖罪思い綴った詩集の家』を書き下ろした。 同2001年らい予防法違憲国家賠償訴訟証言台に立ち、亡き妻の中絶経験語った。この訴訟でのハンセン病患者対す日本国謝罪が機となり、同2001年10月青森県知事謝罪文桜井渡して帰郷要請したことで、60年ぶりに帰郷果たした2004年平成16年)に、郷里への想い綴った詩集津軽の声が聞こえる』を刊行2005年平成17年)には「ハンセン病への偏見根絶世界訴えたい」「詩集ヨハネ・パウロ2世届けたい」との思いから、詩集津軽の声が聞こえる』が慶応大学教授のチャールズ・ドゥ・ウルフにより英訳され、『The Call of Tsugaru』の題で刊行された。ヨハネ・パウロ2世逝去によりその思いは叶わなかったが、翌2006年平成18年)、同年教皇就任したベネディクト16世詩集献呈。このことで謁見機会与えられて、翌2007年平成19年)にバチカンにわたり、ベネディクト16世一般謁見参加ベネディクト16世から直接祝福受けた2008年平成20年)、親族勧めのもと、最後の詩集『鶴田賛歌』を本名長峰利造名義刊行した

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詩作活動

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/28 03:47 UTC 版)

フィリップ・スーポー」の記事における「詩作活動」の解説

スーポーが特に親しくしていたのは、アルベールビロとルヴェルディであった。ルヴェルディは1917年3月に、マックス・ジャコブアポリネールとともに南北』誌を創刊し主筆務めていた。『SIC』誌と並ぶ前衛芸術文学雑誌であり、キュビスム雑誌ダダイスム次いでシュルレアリスムの先駆とされる雑誌である。こうして、スーポーは、アルベールビロの『SIC』誌とルヴェルディの『南北』誌に次々と詩を寄稿するようになった。さらに、アポリネール詩集刊行勧められた。処女詩集アクアリウム』は1917年9月初旬印刷製本された。発行部数235であった。「アクアリウム」という書名は、1917年4月15日付の『南北』誌第2号掲載されアポリネールの詩の一節「きみの舌は / きみの声の / 金魚鉢金魚」に触発されたものであり、邦訳はされていないが「水族館」と訳されることが多いのに対して浅野晃は「養魚鉢」として紹介している。詩集にはアポリネールによるカリグラム倣った詩も含まれる。これに対してアポリネールは、1917年10月の『南北』誌第8号にスーポーの最初の詩「出発」と同じ題名で詩を掲載し彼の出発」を祝った後見人のフェルナン・ルノーが1909年死去した後、ルノー社の経営一手引き受けていたルイ・ルノーは、スーポーが詩人になることに反対したため、『アクアリウム』の印刷代を支払うことができたのは友人たちお蔭であった。

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