詩作活動
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1983年(昭和58年)、当時の栗生楽泉園の園長に詩集出版の手伝いを依頼され、園内の詩人団体である栗生詩話会に入会。ハンセン病問題にも取り組む詩人・村松武司らの指導を受け、失明前の記憶を頼りに、故郷の風景などを詠んだ詩の創作を開始した。詩作を通じてさらに文学に傾倒し、神学も学び、聖書も読み漁った。その中でも特に、国際らい学会事務局長であるスタンレー・G・ブラウン(英語版)には大きな影響を受けた。 1985年(昭和60年)に受洗し、カトリック教徒となった。ただし「教会の真面目くささが嫌い」「声が出ないから讃美歌が歌えるわけでもない」と言い、教会には年に一度行けば良い方だった。受洗の動機は、聖書や賛美歌を身近なものにし、口語体の詩の韻を知りたいためと語っていた。 1988年(昭和63年)、亡き娘への想いなどを綴った初の詩集『津軽の子守唄』を刊行。次いで栗生詩話会の選者の1人であった斎田朋雄の助言のもと、1991年(平成3年)に詩集『ぎんよう』を刊行。前述の村松武司が1993年(平成5年)に死去した後、桜井は村松に深く傾倒していたことから、村松への追悼を主とした詩集『無窮花抄』を翌1994年(平成6年)に刊行した。前述のような視覚や指の障害に加え、皮膚感覚もほとんど失われていたために点字を打つこともできず、頭の中で組み立てた文章をほかの人が代筆することによる詩作であった。 詩集による収益は、それまでに貯めた年金と合せ、タイのハンセン病コロニーの貯水池新設のために寄付した。日本国外のハンセン病患者たちとの共生への願いが理由であった。後にはアフガニスタン支援としてペシャワール会への寄付、日本国外の難民支援を行う教会への献金などの社会貢献も果たした。 1995年(平成7年)、栗生詩話会の選者を務めていた森田進の当時の教え子の1人、在日韓国人3世の女学生・金正美と知り合った。交流を重ね、後に祖父と孫も同然の間柄となった。また、金が後述の遠出の際に同行して身の回りの世話をしたり、声帯の侵されている桜井に代わって声を出したりと、重要なサポート役となることで、行動範囲も広がった。翌1996年(平成8年)、唯一の自伝小説『盲目の王将物語』を刊行。 1999年(平成11年)、前述のタイへの支援の礼としてタイのハンセン病コロニーから招待され、タイ旅行へ出発。翌2000年(平成12年)、その体験をもとにした詩集『タイの蝶々』を刊行した。 2001年(平成13年)、金正美と写真家の権徹(後述)の協力のもと、大韓民国釜山広域市へ出発。亡き妻の父が水豊ダム建設に携わっており、その建設作業に駆り出された多くの韓国労働者がダムの底に眠っているといわれたことから、その謝罪の旅であった。現地ではハンセン病の定着村など訪問し、会う人ごと謝罪を繰り返した。また新羅大学校の日本文学科で詩と哲学についての講義を行ない、学生たちは涙を流しながら桜井の話に聞き入っていたという。帰国直後に入院し、生死を賭けた手術を受けるが、その病床の中、日本国民としての韓国・朝鮮への贖罪の思いを綴った詩集『鵲の家』を書き下ろした。 同2001年、らい予防法違憲国家賠償訴訟の証言台に立ち、亡き妻の中絶の経験を語った。この訴訟でのハンセン病患者に対する日本国の謝罪が機となり、同2001年10月、青森県知事が謝罪文を桜井に渡して帰郷を要請したことで、60年ぶりに帰郷を果たした。2004年(平成16年)に、郷里への想いを綴った詩集『津軽の声が聞こえる』を刊行。 2005年(平成17年)には「ハンセン病への偏見の根絶を世界に訴えたい」「詩集をヨハネ・パウロ2世に届けたい」との思いから、詩集『津軽の声が聞こえる』が慶応大学教授のチャールズ・ドゥ・ウルフにより英訳され、『The Call of Tsugaru』の題で刊行された。ヨハネ・パウロ2世の逝去によりその思いは叶わなかったが、翌2006年(平成18年)、同年に教皇に就任したベネディクト16世に詩集を献呈。このことで謁見の機会が与えられて、翌2007年(平成19年)にバチカンにわたり、ベネディクト16世の一般謁見に参加。ベネディクト16世から直接の祝福を受けた。 2008年(平成20年)、親族の勧めのもと、最後の詩集『鶴田橋賛歌』を本名の長峰利造名義で刊行した。
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詩作活動
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「フィリップ・スーポー」の記事における「詩作活動」の解説
スーポーが特に親しくしていたのは、アルベール=ビロとルヴェルディであった。ルヴェルディは1917年3月に、マックス・ジャコブ、アポリネールとともに『南北』誌を創刊し、主筆を務めていた。『SIC』誌と並ぶ前衛芸術・文学雑誌であり、キュビスムの雑誌、ダダイスム、次いでシュルレアリスムの先駆けとされる雑誌である。こうして、スーポーは、アルベール=ビロの『SIC』誌とルヴェルディの『南北』誌に次々と詩を寄稿するようになった。さらに、アポリネールに詩集の刊行を勧められた。処女詩集『アクアリウム』は1917年9月初旬に印刷・製本された。発行部数は235部であった。「アクアリウム」という書名は、1917年4月15日付の『南北』誌第2号に掲載されたアポリネールの詩の一節「きみの舌は / きみの声の / 金魚鉢の金魚」に触発されたものであり、邦訳はされていないが「水族館」と訳されることが多いのに対して、浅野晃は「養魚鉢」として紹介している。詩集にはアポリネールによるカリグラムに倣った詩も含まれる。これに対してアポリネールは、1917年10月の『南北』誌第8号にスーポーの最初の詩「出発」と同じ題名で詩を掲載し、彼の「出発」を祝った。後見人のフェルナン・ルノーが1909年に死去した後、ルノー社の経営を一手に引き受けていたルイ・ルノーは、スーポーが詩人になることに反対したため、『アクアリウム』の印刷代を支払うことができたのは友人たちのお蔭であった。
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