詩作から劇作へ
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1913年(大正2年)4月26日、熊本県阿蘇郡南小国村(現在の同県同郡南小国町)に生まれる。幼少のころ、村内の志津(現在の南小国町満願寺志津)に設立された「志津劇団」に親族が関わっており、子ども時代の北里が写る1917年(大正6年)の写真が残っている。 長じて東京府東京市(現在の東京都)に移り、早稲田大学の富田衛、桜間中庸らとともに詩作活動を行った。桜間が1934年(昭和9年)4月18日に亡くなると、富田とともに『日光浴室 桜間中庸遺稿集』を編集、1936年(昭和11年)7月28日に発行した。このころ中野区上の原町(現在の同区東中野2丁目)を根拠地として詩誌『おぽんち』を主宰する。西山雄太郎の『無風帯』、水戸敬之助の『象眼』と同時代の詩誌であった。その後、大都映画宣伝部に籍を置き、満23歳であった1937年(昭和12年)初旬に発行された『1936 Daitoeiga』を宮崎輝清とともに編集執筆した記録が残っている。『小国セレナーデ』の作詞をし、当時、東京教育交響楽団の指揮者であった渡邊浦人の作曲を得て完成したのは、このころであるとされる。 1938年(昭和13年)には『オーケストラの少女』、1939年(昭和14年)には『大地』のシナリオを上梓している。1942年(昭和17年)1月、大都映画は戦時統合によって新たに設立された「大日本映画製作」(戦後の大映、現在の角川映画)に吸収されたが、統合にあぶれた人々が寄り集まった皇国映画(代表・中野友作)が製作した『にはか雨』(監督和田敏三)に脚本を提供、同作は同年3月26日に公開された。
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