詩作から劇作へとは? わかりやすく解説

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詩作から劇作へ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/31 00:46 UTC 版)

北里俊夫」の記事における「詩作から劇作へ」の解説

1913年大正2年4月26日熊本県阿蘇郡南小国村現在の同県同郡南小国町)に生まれる。幼少のころ、村内志津現在の南小国町満願寺志津)に設立された「志津劇団」に親族が関わっており、子ども時代北里が写る1917年大正6年)の写真残っている。 長じて東京府東京市現在の東京都)に移り早稲田大学富田衛、桜間中庸とともに詩作活動行った桜間1934年昭和9年4月18日亡くなると、富田とともに日光浴桜間中庸遺稿集』を編集1936年昭和11年7月28日発行したこのころ中野区上の原町現在の同区東中野2丁目)を根拠地として詩誌『おぽんち』を主宰する西山雄太郎の『無風帯』、水戸敬之助の『象眼』と同時代の詩誌であったその後大都映画宣伝部に籍を置き、満23歳であった1937年昭和12年初旬発行された『1936 Daitoeiga』を宮崎輝とともに編集執筆した記録残っている。『小国セレナーデ』の作詞をし、当時東京教育交響楽団指揮者であった渡邊浦人作曲得て完成したのは、このころであるとされる1938年昭和13年)には『オーケストラの少女』、1939年昭和14年)には『大地』シナリオ上梓している。1942年昭和17年1月大都映画戦時統合によって新たに設立された「大日本映画製作」(戦後大映現在の角川映画)に吸収されたが、統合あぶれた人々寄り集まった皇国映画(代表・中野友作)が製作した『にはか』(監督和田敏三)に脚本を提供、同作同年3月26日公開された。

※この「詩作から劇作へ」の解説は、「北里俊夫」の解説の一部です。
「詩作から劇作へ」を含む「北里俊夫」の記事については、「北里俊夫」の概要を参照ください。

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