評価 - 対立から亡国へとは? わかりやすく解説

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評価 - 対立から亡国へ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/12 06:19 UTC 版)

黄金の自由」の記事における「評価 - 対立から亡国へ」の解説

黄金の自由」は極めて特異その評価には論争の多い政治システムである。それはヨーロッパ主要国において絶対主義支配的だった時代において、例外的に権力の強い貴族支配と、弱体な王権とで構成される点で特徴ある性格有していたし、ある種近代的価値似通った要素備えていた。ヨーロッパ中央集権化絶対主義宗教戦争王朝による争い直面している時期共和国地方分権国家連合連邦制民主政治宗教的寛容さらには平和主義までも経験していた。シュラフタがしばしば国王による戦争計画廃案にしたことは、民主的平和論に関する論議相当するものとさえ見なされる。「黄金の自由システム民主制立憲君主制連邦制先駆的存在とさえ評価されることがある共和国の「市民」たるシュラフタは、抵抗権社会契約個人の自由合意に基づく政治運営独立心尊重といった価値称賛したが、それらは世界的に見れば近代になって広く普及したリベラルな民主政治概念である。19・20世紀リベラルな民主主義者のように、シュラフタ国家権力に対して強い不安を抱いていた。ポーランド貴族国家権威主義については強い反感持っていた。 おそらくポーランドの「貴族民主主義者」に最も似た人々ヨーロッパではなく、アメリカ合衆国(とくに南部)の奴隷所有する貴族」たちの中にいた。奴隷所有する民主主義者たち、そしてジョージ・ワシントントマス・ジェファソンといったアメリカ建国の父」たちは、貴族共和国改革派シュラフタ達と多く価値観共有していた。近代史において、ポーランド・リトアニア共和国1791年世界で2番目の成文憲法である5月3日憲法制定したことは、偶然の符合では決してないのである起草者の一人であるポーランドスタニスワフ・アウグスト・ポニャトフスキも、「アメリカ合衆国イギリス参考にしてさらにポーランド事情に合うものにした」と述べている。 一方で黄金の自由受益者貴族限られていて、小作農都市民はそこから排除されていたという批判的な指摘存在する。これもアメリカ合衆国の初期歴史において大土地所有者や大商人たちが権力独占したことと似通っている。人口大多数占め庶民法的自由が保障されず、貴族横暴から身を守ることも出来ず平民幸福な生活送れかどうかはまったく各領主人徳能力次第であった)、都市の発展停滞し地方では農奴制一般的になってしまったというのである後の時代人々当時ポーランド振り返って共和国が「貴族天国ユダヤ人楽園農民地獄」だったのだと批判的に主張するようになったが、この見方裏付ける実証的研究充分に行われているとは言い難い状況である。そして貴族階級であるシュラフタ自身も、彼らのうちでより強大な権力を持つ大貴族マグナート)に従属して自由を奪われていった一方で庶民でもクラクフ大学などの大学出て学位取ったエリート貴族同様の政治的権利持ち国政参加することができた。彼らは実家裕福な商人であったり、自分後見人貴族裕福な商人がいたりして、その才能認められ大学進学外国留学援助受けた1791年ポーランド共和国憲法作成したグループ中心人物一人ポーランド科学アカデミー前身となるポーランド科学友の会創設したスタニスワフ・スタシツなどはそういった場合に当たる。 ポーランド・リトアニア共和国国家としての生き残り失敗したため、極端な場合共和国徹底した自由主義は却って「内戦侵略国家弱体優柔不断愛国心欠乏」を招いたという一面的な非難を受ける。絶対主義国民国家同化政策制度化)という、民主主義対抗する「(当時感覚で)近代的」な政治システム建設求められた際に有力者たちの何人かが常に自由至上主義リバタリアニズム)に拘ったため、共和国改革反対派の「自由」の発露である「リベルム・ヴェト」の行使繰り返しながら、国家機能麻痺させて徐々に衰退続け、自由が行過ぎた無政府状態瀬戸際まで追いやられたイギリスの歴史学者ノーマン・ディヴィス指摘するように、ポーランド社会が何世紀ものあい性善説と、それに基づいたリベルム・ヴェト制度のもとで民主主義多文化主義追求をしていたことは、巨大化する領域国家同士が戦う弱肉強食時代になると、リバタリアニズム追求する一部有力者たちに悪用されるようになり、国家改革対す圧倒的に不利な要素となったシュラフタ多く自分達が完璧な体制国家住んでいると信じていた。一部人々黄金の自由サルマティズムという根拠希薄な美学疑いをもち、個人の自由国家近代的な発展のために一部制限すべきだという考えカント哲学的な保守主義穏健主義)を持つようになったが、それに気付いた時期は遅すぎた。「大洪水」で外国軍撃退成功した体験が、余計に改革コンセンサス形成遅らせたシュラフタ多く保守主義でなくリバタリアニズム自由至上主義)の影響受けて近代的な常備軍とその強化のための税負担拒みシュラフタのうち特にマグナートたちは自らの個人的利益追求するために、諸外国勢力と結びついて共和国政治システム麻痺させた。改革勢力徐々にその力をつけていき、最終的にポーランド社会圧倒的多数派となったが、そのとき既にロシア軍共和国首都ワルシャワ迫ってきていたのであるこういう既得権益を持つ有力者たちによるジェレミ・ベンサム的な偏狭な功利主義にもとづいたリバタリアニズム自由至上主義)の横行により、共和国着々と軍事力および能率性(つまり官僚制)を構築していく近隣諸国対抗することが出来なくなっていったあげく、ポーランドを狙う諸外国野心標的になったのである。そして18世紀後半共和国リバタリアンたちはタルゴヴィツァという都市集結して彼らの政治連盟である「タルゴヴィツァ連盟」をつくり、共和国大改革流れ頑強に抵抗しこともあろうにロシア結託しワルシャワ中央政府に対して武力反乱起こした。彼らはロシアから彼ら個人個人の「自由」と「財産権」、すなわち租税免除私有地保全保障されのである。「タルゴヴィツァの売国奴」と呼ばれたリバタリアン自由至上主義者)・ユーティリタリアン功利主義者)たちは祖国ポーランドよりも自らの個人的な経済的利害優先したこのためポーランド社会は完全に疲弊してしまい、民間財政はまだ比較裕福だったものの国家財政破産に近い状態となり、近隣絶対主義諸国による領土分割によって民主主義と多民族主義国家ポーランドそのもの失われてしまったのであるリバタリアン勢力である「タルゴヴィツァの売国奴」たちは、ロシアから提供されたはずの政治的自由個人財産保全保障ロシアによる政治的方便に過ぎなかったことを、祖国共和国分割消滅され、ロシア兵がやってきて自分たちの領地好き勝手に略奪するようになってから初めて気づいたのである。彼らの自由も財産保全保障されることがなく、すべてツァーリ一存の下に入ることになってしまった。現代ポーランドで「タルゴヴィツァの連中(タルゴヴィチャニンtargowiczanin)」といえば愚か者売国奴・無責任自分勝手代名詞となっている。 一方当時改革勢力やその穏健主義思想受け継いだ人々ポーランド分割時代通じて国民活動続け、後のポーランド発展思想的原動力のひとつとなっていった。

※この「評価 - 対立から亡国へ」の解説は、「黄金の自由」の解説の一部です。
「評価 - 対立から亡国へ」を含む「黄金の自由」の記事については、「黄金の自由」の概要を参照ください。

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