解釈の歴史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/29 23:14 UTC 版)
発布当時の東京高等師範学校校長にして「東洋史の父」と呼ばれる高名な学者・那珂通世をして「聖訓の懇到なるに感泣するのみ。豈敢て妄に一辞を賛することを得んや」と言わしめるなど、発布当時から一言一句が神聖視された教育勅語だが、実際問題として解りにくい箇所が多いため、発表直後より学者による学術的な解釈、文部省や衆参議院など政府機関による公式・半公式の解説書が多数制作されている(那珂通世自身も、何冊か解説書を出している)。また「教育勅語の公式解釈の解釈」なども制作された。 1940(昭和15)年文部省内に設置された聖訓ノ述義ニ関スル協議会の報告「聖訓ノ述義ニ関スル協議会報告」の中の「附録一,教育勅語衍義書目録」によれば,1890(明治23) 年から1939(昭和14)年までの間に刊行された「衍義書」として306冊が挙げられている。 「近代国家として成立したばかりの大日本帝国」を前提に1890年に発布された教育勅語は、日本が列強の仲間入りを果たした日清戦争(1894年)後くらいから既に時代に合わなくなり始めたため、第3次伊藤内閣(1898年-)時代の文相・西園寺公望によって列強国の国民としての社会道徳を説いた『第二教育勅語』の起草が行なわれたが、教育勅語は一言一句が神聖視されていたため、「教育勅語の改訂」という作業が行えなかった。そのため、「戊申詔書」(1908年)や「青少年学徒ニ賜ハリタル勅語」(1939年)などの新たな勅語の発布で教育勅語を補うとともに、「教育勅語の再解釈で補う」という方式が取られ、時局に合わせて教育勅語は再解釈された。これらの解釈は、社会情勢や時局の推移によってかなり違い、特に太平洋戦争期には、極めて戦時色の強い解釈が行われている。これらはすべて廃止される1948年に至るまで、教育の基本方針として使い続けられた。 そのほか時代により、公的根拠や学問的背景のない一般人による独自解釈が存在する。例えば「生きて虜囚の辱めを受けず」の『戦陣訓』の執筆者、中柴末純陸軍少将の『皇道世界観』(1942年)など大戦中の狂信的な解釈、また明治神宮の配布する、戦後社会に合致させようと独自解釈した「国民道徳協会」訳などがある。そしてこれらの素人解釈でも、執筆者の地位や発行母体によっては広く知られている場合もある。 なお、勅語や御製などの天皇の言葉は、いわゆる現代語訳はおろか、何らかの言い換えをすることすら戦前は不敬とみなされかねないため、基本的に教育勅語を解説した書物は、まず勅語の全文を掲載した後、勅語の一部分ごとに区切って抜き出して、その意味を謹んで解釈する「謹解」という形式をとる。 勅語衍義(1891年) 解説書の中でも、井上哲次郎の『勅語衍義(えんぎ)』(1891年9月)は、勅語の起草者の一人である中村正直自身がこれを閲し、また勅語を発布した文部大臣・芳川顕正が巻頭に賛を寄稿しているため、単に一人の学者による著作ではなく、政府による半公式の解釈ともいうべきものであり、「官定解釈」と研究者の間で呼ばれる。本書は刊行後に明治天皇自身の上覧に供された。 1899年には増訂版の『増訂勅語衍義』が刊行されている。井上は1926年に不敬事件を起こして公職を追放され、この時点で井上および『勅語衍義』の解釈は政治的影響力を失った。 本書の序文において、井上は、勅語の趣旨を「孝悌忠信、共同愛国」すなわち「孝悌忠信ノ徳行ヲ修メ、共同愛国ノ義心ヲ培養セザルベカラザル所以」を述べた物だと端的に記している。 昭和時代には『勅語衍義』も絶版となり、教育勅語や『勅語衍義』が成立した時代背景も忘れられていたため、1942年(昭和17年)には井上の米寿の記念として、『勅語衍義』の復刻版とともに当時の時代背景の解説などを付録した『釈明 教育勅語衍義』が刊行されている。井上哲次郎は、民主主義国家としての日本国の成立を見ることなく、終戦の数か月前に亡くなった。 漢英仏独教育勅語訳纂(1907年) 1907年に文部省によって中国語・英語・フランス語・ドイツ語に翻訳された。このうち、菊池大麓を中心とするメンバーによって訳された英訳版「The Imperial Rescript on Education」が、文語体の日本語による原文では明確にし得ていないものを明確にしている事実上の公式解説として良く知られる。 この英訳版では文頭部分において、大日本帝国における「朕」と「臣民」の関係を「Know ye, Our subjects:」という形で端的に表現している。 国定修身書 六(1907年) 学校教育では、1907年より設置された尋常小学校6年の修身で教育勅語が教えられていた。そのため、文部省が編纂し1907年から使われた国定の教科書「修身書」の第六巻に、教育勅語の解説が載っている。 「明治天皇が我等臣民のしたがひ守るべき道徳の大綱をお示しになるために下し賜わつたもの」であり、「我等臣民の永遠に守るべきもの」などと解説されている。 「聖訓ノ述義ニ関スル協議会報告」(1940年) 1940年は教育勅語渙發五十年記念にあたるため、記念式典が行われた。10月文部省内に聖訓ノ述義ニ関スル協議会が設置された。その際に編纂された文部省図書局「聖訓ノ述義ニ関スル協議会報告」に、教育勅語の逐語訳(現代語訳)および解釈が載っている。ここに載っている逐語訳「教育に関する勅語の全文通釈」が、文部省による公式の現代語訳であり、研究者の間では通称「全文通釈」と呼ばれる。 これは一般向けに公開されたものではない(逐語訳を公開すると不敬罪に問われる恐れがあり、文部当局といえども「不敬ではないか」という攻撃を気にせねばならなかった)ため、当時の一般人には知られていないが、数少ない公式の現代語訳であり、新字新仮名にさえすれば2000年代でも割と読みやすいので学生や一般人に説明するときに便利であり、また太平洋戦争期における教育勅語の超国家主義的な解釈を良く示すものとして、後世の研究者の間では知られる。 初等科修身 四(1941年) 文部省が編纂し、1941年より1945年まで使われた国民学校4年の修身の教科書に教育勅語の解説が載っている。極めて戦時色が強い。終戦後は進駐軍によって墨塗りが指示され(墨塗り教科書)、しばらく使われた後に修身の授業自体が停止され、教科書が回収されて廃棄された。 小学生には解釈が難しい「一旦緩󠄁急󠄁アレハ義勇公ニ奉シ」の部分は、これまでの教科書では「一身をさゝげて」などと解説されていたが、この版では「勇氣をふるひおこして、命をささげ、君國のためにつくさなければなりません」と、「命をささげる」ということを意味することが明確に解説されている。 教育勅語等排除に関する決議(1948年) 1948年6月19日に衆議院で全会一致で決議されたもの。「これらの詔勅の根本的理念が主権在君並びに神話的國体観に基いている事実は、明かに基本的人権を損い、且つ國際信義に対して疑点を残すもととなる」と解釈され、これをもって教育勅語は日本国から排除された。 なお、あくまで1948年の時点では、GHQの意向に逆らって教育勅語を擁護すると公職追放等の危険があったこともあり教育勅語の排除は衆・参で全会一致を見たが、後の時代には「教育勅語を全面的に支持する」「核の部分は支持できる」などと公言する議員も登場している。
※この「解釈の歴史」の解説は、「教育ニ関スル勅語」の解説の一部です。
「解釈の歴史」を含む「教育ニ関スル勅語」の記事については、「教育ニ関スル勅語」の概要を参照ください。
- 解釈の歴史のページへのリンク