艇型
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用途としては、沿岸における哨戒と対潜攻撃を想定し、また港内での交通艇の用途や、曳船にも使えるよう考慮された。設計は逓信省の木船規定に準拠し、戦時の急速建造を考慮して構造や工作方法を決定した。実際の建造では計画より1年程度遅れたが、木材の入手困難と、それ以上の主機の量産の遅れが影響したという。特に工事簡易化はされなかったが、艤装品の簡易化と最後の艇若干が垂直煙突とマストを採用した。また操舵室、機械室などに防弾板を設置した。これらにより復元性が若干低下したので、後期の艇はバラストを搭載した。 主機は飛行機救難船に搭載して好評だった中速400馬力ディーゼルを搭載、量産を考慮して1軸とした。当時の漁船は7から8ノット、速い船でも9ノット程度であり、計画の11ノットは駆潜艇としては遅くても、漁船としては速いものだった。これを実現するために船体の長さを増し、その構造を頑丈にして対処した。 発電機として15kWと6kWのディーゼル発電機を搭載した。船の大きさの割には有力な装備であり、後の磁気機雷掃海の際に掃海具にそのまま電流を流せ、本型が活躍できる一因にもなった。 爆雷は九五式爆雷18個搭載し、手動投下台一型6基、同二型2基を設置する計画だったが、実際には5個載投下台(投下軌道)2組と爆雷庫内に12個の計22個を搭載した。 水測兵装(ソナー)は、吊下式水中聴音機と93式1型探信儀を各1組搭載する計画だったが、実際の探信儀は軽便探信儀を搭載し、後に三式2型探信儀に変更となった。 機銃は当初7.7mm機銃1挺だった。試作艇の完成図によると船橋前に7.7mm機銃1挺を装備している。機銃はその後1943年に13mm単装機銃、更に1945年に25mm単装機銃に変更された。外線部隊の艇では爆雷の搭載量を10個に減らし、後部に機銃1挺を追加した。「あ号作戦後の兵装装備の状況調査」で1943年から1944年の時点で第34,40,48,64,65,79,198号が13mm単装機銃2挺を装備したと記されている。
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艇型
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/09/06 01:47 UTC 版)
設計はできるだけ簡単な構造、艤装とし、艇型はトロール漁船そのままであり、戦争が起こらずに本型が必要なくなった場合には、簡単に漁船に改造できるよう考慮されていた。主な変更点として船艙部分は兵員居住区や弾薬庫などにされた外、機械室へは船橋から船内を通って行き来できるようにしたくらいだった。なお舵取機械は当初は手動の桿鎖式だったが、後期の艇はスピンドル式に変更された。 兵装は船首に短8cm高角砲1門を装備、7.7mm単装機銃1挺は船橋上に装備された。その他爆雷も搭載しており、対潜戦闘にも従事した汎用艇だった。 竣工後の変更として、掃海作業用の後部甲板部分が狭く、後に上部構造物後端にあった浴室を廃止して作業甲板を広げた。機銃は終戦時、25mm単装機銃2挺から4挺が装備されていた。「あ号作戦後の兵装増備の状況調査」によると1944年8月20日付けの報告で「第6号」が船橋前に機銃台を設けて25mm単装機銃を1挺、煙突直前の上部構造物上の左右舷に機銃台を設けて1挺ずつ、上部構造物上の後端、後部マストの直後に1挺、合計25mm単装機銃4挺を装備していた。また「JAPANESE NAVAL VESSELS AT THE END OF WAR(終戦時の日本海軍艦艇)」によると船橋前部に機銃台を設けたのは「第6号」のみで、他の艇は船橋(またはメイン・マストの直後)の左右舷に1挺ずつ、後部マスト直後に1挺、また船橋上の機銃も残し計4挺を装備した。 マストは前部、後部共に単マストだったが、「第13号」は後部が3脚マスト、「第14号」は後部が支柱1本を加えた2脚形式だった。また第11,12,17,18,19,20,22号の各艇はアンカーリセスを設けた。
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艇型
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/23 02:20 UTC 版)
設計は木造漁船の規定が適用され、一般配置も漁船と大差は無く、戦争終結後は容易に漁船に改造できるよう考慮された。漁船との違いは船艙(魚艙)に当たる部分に前部兵員室を設けた。また前部兵員室と機械室の間には糧食庫と冷蔵庫を設け、その下方には鋼製の重油タンクを設けて航続距離の延長を図った。前部マストは船橋前方に設置したが、複数の艇では船橋直後に設置したものもあった。 機関は第一号型駆潜特務艇と同じで、当時量産されていた中速400馬力ディーゼルを搭載した。計画速力9ノットに対する必要馬力は約250馬力で本艇では約9.3ノットを出せる力量のエンジンだったが、当時は選択の余地が無かった。力量の余裕は荒天時の速力低下を防ぐという良い点もあった。また哨戒中の燃料節約のため、後部マストに帆を張って帆走することも計画され、帆架ブームが設けられていたが、帆走は建造途中で断念するに至った。 兵装は船首に機銃台を設置し25mm連装機銃1基を搭載した。船尾には4個載の爆雷投下軌道2組を設置、爆雷8個を搭載する計画だった。電探は24号電探の搭載を計画していたが、実際には13号電探が船橋の後部、煙突の直前に搭載された。逆探は船橋トップの舷側部に設置が確認される。 「第1号」が1945年3月末に横須賀で竣工し、その審議の結果、以下の改正が施された。 操舵室や機械室側方に10mmHT鋼を防弾板として装着した。 重心が計画より高い位置となったので砂利バラスト(計画32トン)が更に10トン増載された。また後期艇は煙突を約300mm低め、その径も小さくされた。 「第1号」は軽便探信儀を搭載したが、以降の艇は新式の三式3型探信儀を船底装備することに改められた。 爆雷を8個から三式爆雷12個に増載し投下軌道も延長、そのため上部構造物内にあった浴室を廃止した。 代償重量として4m通船を撤去したが、以後もそのまま搭載していた艇もあった。 また同年4月に沖縄戦が始まり、上記改正と同時に以下の改正も施された。 25mm単装機銃が後部マスト直前の後部構造物(烹炊室)上の両舷に1基ずつ増載された。 前部25mm連装機銃台の左右に12cm連装(または単装)ロケット砲を1基ずつ装備した。 二式特魚雷用落射台を船体中央両舷のブルワーク上に1基ずつ装備した。必要に応じて魚雷2本を供給する予定だった。 なお、電線20,000mを搭載とする文献がある。
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艇型
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/21 16:38 UTC 版)
一般計画要領書のH13第460号艦型の注釈として「註. 上記計画ハ(以下記載ノモノモ同様)急速建造艦ニシテ第一七〇号艦ノ計画ヲ其ノ侭使用ス.」(第一七〇号艦は「平島」のこと)とあり、主要要目は平島型と全て同一である。ただし舵のみ平島型では半平行舵だったが、網代では平行舵として面積を増大し、旋回半径を小さくする計画だった。また機銃はマル急計画の「網代」以下14隻は平島型と同じ13mm連装機銃1基の計画だった。
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