自称「高麗国王」迎合説とは? わかりやすく解説

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自称「高麗国王」迎合説

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 15:19 UTC 版)

渤海 (国)」の記事における「自称「高麗国王」迎合説」の解説

渤海王の「高麗国王」自称伝え史料は以下である。 庚午。帝臨軒。高麗使揚承慶等貢方物。奏曰。①高麗國大欽茂言。承聞。在於日本照臨八方聖明皇帝登遐天宮。攀號感慕。不能黙止。是以。差輔國將軍揚承慶。歸徳將軍揚泰師等。②令齎表文并常貢物入朝。詔曰。高麗國王遥聞先朝登遐天宮不能黙止。使揚承慶等來慰。聞之感痛。永慕益深。但歳月既改。海内從吉。故不以其礼相待也。又不忘舊心。遣使來貢。勤誠之至。深有嘉尚。 — 続日本紀、巻二二淳仁天皇天平宝字三年七五九)正月 中国語版ウィキソースに本記事関連した原文あります續日本紀/卷第廿二 上述べた楊承慶の奏上のうちの傍線部②の「表文」は、実体判然としないが、君臣上下関係明確にした「上表文」を指す蓋然性が強い。そして「常貢物」はその表現から朝貢態度明確にうかがわれる。 そのため、楊承慶が「高麗国大欽茂言す」と奏上したのも、日本にとって高句麗とは古の朝貢国であり、その後身を称することで日本歓心を買おうとしたと解釈される実際に日本はこれ以前に度々渤海に古の高句麗のように朝貢することを要求している。すなわち、第一回渤海使賜った渤海王宛て国書に「天皇、敬みて渤海郡王に問う。啓を省るに具さに知る、旧壤を恢復し聿に曩好を脩めんことを。朕、以て之を嘉す。」とある。 天皇敬問渤海郡王。省啓具知。恢復①舊壤。聿修②曩好。朕以嘉之。天皇、敬みて渤海郡王に問う。啓を省るに具さに知る、①旧壤を恢復し聿に②曩好を脩めんことを。朕、以て之を嘉す。 — 続日本紀、巻十・神亀五年(七二八四月壬午一六日中国語版ウィキソースに本記事関連した原文あります續日本紀/卷第十 ここに登場する傍線部①の「旧壤」とは高句麗故地の意味であり、傍線部②の「曩好」とは古の日本高句麗との朝貢関係を指す。 そして直接的に今回の「高麗国王」自称に至る上で重要なのは、前回753年渤海使慕施蒙らに賜った日本国書内容である。 天皇敬問渤海國王。朕以寡徳虔奉寳圖。亭毒黎民照臨八極。王僻居海外。遠使入朝丹心至明。深可嘉尚。但省來啓。無稱臣名。仍尋高麗舊記國平之日。上表文云。族惟兄弟。義則君臣。或乞援兵。或賀踐祚。修朝聘之恒式。効忠款之懇誠。故先朝善其貞節。待以殊恩。榮命之隆。日新無絶。想所知之。何假一二言也。由是。①先廻之後。既賜勅書。②何其今歳之朝。重無上表。以礼進退彼此共同。王熟思之。季夏甚熱。比無恙也。使人今還。指宣往意。并賜物如別。(「天皇敬問…深可嘉尚」及び「季夏甚熱 」以下は外交辞令であるため省略)但し王啓を省るに臣・名を明記していない。そこで『高麗旧記』を繙くと、かつて高句麗日本捧呈した上表文がみえ、それには「族惟兄弟、義則君臣。」とあって日本高句麗とが君・臣の関係であることを明らかにしている。さらに『高麗旧記』には高句麗日本に対して、あるいは援軍乞い、あるいは天皇践祚慶賀したことなど、朝貢礼式守って通交し、忠誠示したことを記している。(その高句麗一度滅亡して日本との交渉途絶えたが、神亀四年に至り先年高句麗再興し、その遺民保有した称する渤海が、かつての高句麗のごとく日本入朝してきた)故に聖武天皇前代親交忘れことなく入朝してきた渤海貞節なものとして褒め、特に優遇しのである。これにより、渤海国運盛んにして、日々徳を増新し絶えることがないであろう思うに渤海王このような事情は既に承知のことであろうし、更めて詳しく述べる必要もなかろう。(ところが、渤海王国交開始当たって日本捧呈すべき上表文君臣上下の関係を明示するーを提出しておらず、遺憾に思うところである)是により、かつて高句麗日本進めたような君臣上下名分関係を明らかにする上表文提出要求する旨の勅書を、これより先天十二年に大伴犬養らに持たせて派遣した。ところが今回朝貢に際してまた上表文携行しなかった。朝貢国として礼儀則って進退せねばならないことは、渤海もその前身である高句麗と同様である。渤海王よくよくこの非礼の点ー朝貢国なのに上表文提出しないーを反省せよ。 — 続日本紀、巻十九孝謙天皇天平勝宝五年(七五三中国語版ウィキソースに本記事関連した原文あります續日本紀/卷第十九 この渤海賜った国書からは傍線①・②で「先廻の後ち」に勅書を賜って渤海上表提出するように命じたにもかかわらず今回日本入朝の際に再び上表提携しなかったことを日本戒飭していることが分かる。 ここに登場する傍線部①の「先廻の後ち」の「先廻」とは、前回天平11年739年)に来朝し渤海使己珎蒙らが帰国した天平12年740年二月己末(2日)のことを指し、その「後ち」に勅書賜ったというのは、渤海使己珎蒙が帰国した後まもなく天平12年四月丙子大伴犬養らが渤海派遣遣渤海使任命天平十二年正庚子十三日))されたことにあたる。 つまり、日本朝廷がこの時、わざわざ単独渤海専使遣わし強く君臣上下関係明示する上表文提出迫ったことから、渤海ではそれを受け、その後初めてやってきた759年渤海使楊承慶が朝貢態度明確にしたのであって高麗国王」自称こうした要求迎合したものと解釈される渤海王の「高麗国王」自称について、『大日本史』巻二三八・渤海伝では、「按自此前皆称渤海。至此称高麗茂一時称旧号也。」と解しているが、これに対して下田礼佐は、「之は大日本渤海伝に云ふ様に高麗旧号復したではなく日本で切りに高麗忠誠追懐し、先例に則らうとするので、日本歓心を得やうとする方便用ひに過ぎない」と喝破している。この下田礼佐の指摘に対して石井正敏は、「自称に至る経緯として前回使節与えられ日本返書内容重視する時、この点を一層強調してよいと考える。つまり、あくまで渤海王自発的に高麗国王』と称したではなく前回返書により日本渤海高句麗継承国意識、それも渤海日本対す朝貢国としての高句麗後身とする考え方根強いことを知り渤海王敢えて日本抗することなく、その心理利用する目的から『高麗国王』と称し、『令齎表文并常貢物入朝。』と奏上せしめたのである。そして、この策は日本に『又不忘旧心、遣使来貢。勤誠之至、深有嘉尚。』と言わしめたことにより、その意図十分に達成せられたといえるであろう。従ってここでは文王大欽茂外交手腕高く評価すべきである思われる」と評している。 その他自称「高麗国王」迎合説の根拠として以下が挙げられる日本以外の国、たとえば唐に対して渤海自国高麗称したり、あるいは唐が渤海高麗とした例がみられないことも、却って対日外交のための設辞として「高麗国王」と称してきたものとする考えを妥当にする。 渤海国書の中で高句麗夫余持ち出したのは、大国であった夫余高句麗継承国であることをアピールすることで外交有利に展開しようとした渤海日本との交渉の際に、渤海王やその使節自国優位性を保つために自らをかつての強国高句麗」の後継国と標榜したことに異論はないが、『日本後紀成立時点まで、20数回にも及ぶ渤海との交渉のうち、日本渤海高句麗相違認識していたはずであり、むしろそれを認識していたからこそ史書には「高句麗人」もしくは高麗人と書かずに、「土人と書いた。 日本に対して高句麗の名を持ち出したのは、昔交渉のあった国の名で日本側の歓心を買うというのと、「往時強大国高句麗の再興誇らか宣言」することでいわば高句麗の威を借りて円滑に隣交対等外交)を申し入れようとした。 758年来日渤海使帰国した翌年から実施され藤原仲麻呂の征新羅計画は、唐の安史の乱混乱機に日渤共同計画されたが、この時点での外交円滑化とは即ち、日渤の軍事協力―征新羅計画―をすすめることであるため、高句麗称したのは、日渤軍事同盟を結ぶに都合よかった考えることができ、天平勝宝四年の渤海への返書には「高麗旧記尋ねるに」としたなか「或乞援兵」との条があり、高句麗称したのは日本側のもつ軍事同盟のあった高句麗イメージ利用した外交政策考えられる。このことは、天平宝字六年に征新羅計画中止されてから朝貢を取らなくなった渤海に対して日本出した国書からも窺われ『続日本紀』宝亀三年二月二十八日条)、即ち「昔高麗全盛時」と高句麗の例を引いて「又高氏之世兵乱無休、為仮朝威彼称兄弟方今大氏會無事、故妄称舅甥於礼矣」とあり、高句麗の時は兵乱続いたため日本兵力頼り「兄弟」称して阿ねていたが、渤海兵事が無いと、勝手に舅甥と間柄変えて礼を失する行動とっていると戒飭しており、暗に新羅計画をたて軍事的援助要する時だけ高句麗の名のもと朝貢取り、その必要がなくなると態度翻したと、責めているようにも取れる。 河内春人は、第一回渤海国書に「高麗旧居ヲ復シ、扶餘遺俗ヲ有ツ」という一文があることについて、「渤海国書の中で高句麗扶餘持ち出したのは、石井氏指摘するとおり大国高句麗継承国であることをアピールすることで外交有利に展開しようとしたものであろう。ただし一方で渤海同時に唐から受けた爵号である渤海郡王を名乗っており、唐から受けた爵号日本との外交利用している。中国戦争繰り広げた高句麗後継国と唐の冊封国という一見すると矛盾した主張見えるが、日本との外交関係成立させるための手段の一環であった捉えられる」として、「すなわち、渤海高句麗扶餘の両地を版図中に収めていることを誇示したものであろう。唐の冊封受けていることを示して東アジアにおける国際的信用確保した上で靺鞨諸藩位置づけ境域内に高句麗夫餘組み込んだ強大な国家であることを主張し対等ないし有利な外交関係構築することが渤海狙いだったのである」と指摘している。 正史では渤海使高麗使・高麗蕃客渤海王高麗国王、などと記す例は、奈良時代集中的にみられるが、正史依る限り平安時代入ってからは見当たらず延暦十七年(798年)を最後に日本側の渤海高句麗継承国意識見られなくなる。 帝臨軒。高麗使揚承慶等貢方物。奏曰。高麗國大欽茂言。承聞。在於日本照臨八方聖明皇帝登遐天宮。攀號感慕。不能黙止。是以。差輔國將軍揚承慶。歸徳將軍揚泰師等。令齎表文并常貢物入朝。詔曰。高麗國王遥聞先朝登遐天宮不能黙止。使揚承慶等來慰。聞之感痛。永慕益深。但歳月既改。海内從吉。故不以其礼相待也。又不忘舊心。遣使來貢。勤誠之至。深有嘉尚。 — 続日本紀、巻二二淳仁天皇天平宝字三年七五九)正月 中国語版ウィキソースに本記事関連した原文あります續日本紀/卷第廿二 上記の記事注目されるのは渤海王使節をして「高麗国大欽茂」と名乗らせていることであり、正史ではこれ以後渤海使高麗使・高麗蕃客渤海王高麗国王、などと記す例が頻出するが、このような現象は、奈良時代集中的にみられ、正史ではこの天平三年759年)度の例を初見として以前遡ることが出来ず、従ってこれらは渤海王の「高麗国王」自称起因するものと考えられる正史以外では平城宮出土木簡に「依遣高麗使廻来、天平宝字二年十月廿八日二階叙。」とあるのが渤海高麗と記す最も古い資料であり、これは渤海王の「高麗国王」自称の二ヵ月ほど前であるが、木簡性格から判断して辞令の類と異なり後日製作の可能性排除できず、必ずしも「十月廿八日」に書かれものとする必要がないため、これも渤海王の「高麗国王」自称無関係とはいえない。『日本後紀』以下の正史では、渤海使(王)を高麗使(王)と称する例は皆無近く次の一例のみであり、『日本文徳天皇実録嘉祥三年850年五月壬午条・橘嘉智子伝に、「葬太皇太后深谷山。……太皇太后、姓橘氏、諱嘉智子。父清友、少而沉厚。渉猟書記。……宝亀八年高麗国遣使修聘。清友年在弱冠。以良家子、姿儀魁偉接対遣客。高麗大使献可大夫史都蒙見之而器之。」とあって渤海を「高麗」と表現することが橘清友伝記登場するが、これは宝亀七年776年来日渤海使関連する部分であり、9世紀意識に基づくものではないとみられる。何故なら、橘清友延暦八年789年)に病死していることを考えると、前記記事基礎となった清友伝記資料延暦八年降らず、ここに「高麗使(国)」とみえるのも、奈良時代記録そのまま踏襲して叙述したものと考えるべきであり、従って正史にあっては日本後紀以降渤海高麗と記す事例はみられず、このことは渤海王の「高麗国王」自称に伴う奈良時代後半一時的な現象考えられるこの他『続日本紀』宝亀三年二月己卯条「賜渤海王云、天皇敬問高麗国王。」とみえるが、これらも現史料編修の際の冒頭部分注記とに分けて考えるべきであり、つまり『続日本紀』編纂時には渤海高麗称することが殆どなく、ためにこうした書法用いていると考えられ、この点からも渤海高麗とする表記法一時的な現象であった推察することが出来る。

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