監督・指導者として
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20年間の監督生活で8度のリーグ優勝を果たしながら、日本シリーズでは1度も日本一に就けず、「悲運の名将」と言われた。ただし西本当人は自分が「悲運の名将」と言われることには否定的で、「もし、私が本当に悲運なら戦争で死んでいるし、復員してからも野球に再会できたり、大毎・阪急・ここ(近鉄)の3チームで素晴らしい選手に巡り合えて、8度も日本シリーズに出場などできない。“悲運の名将”なんておこがましい。敢えて言うなら“幸運な凡将”ですね(笑)」と語っている。3つのチームを優勝に導いた監督は、プロ野球史上で西本、三原脩、星野仙一のみである(2020年現在)。三原が指揮したのが1リーグ時代の巨人とセ・パ両リーグから1チームずつ(西鉄・大洋)、星野がセ・リーグの中日・阪神とパ・リーグの楽天だったのに対し、西本が指揮したチームはすべてパ・リーグであり、現役時代も含めてパ・リーグ一筋の野球人生だった。 阪急・近鉄時代には時間をかけて選手を育て、チームを作り変え、弱小球団を常勝軍団へと導いた。2球団を優勝に導いた監督は前記の三原・星野以外にも複数いるが、西本のように、2チームで自らチームの土台を作り上げて優勝させた監督は少ないとされる。 1960年の大毎監督辞任、1966年の信任投票事件、1975年の羽田殴打事件などに見られるように、チームの強化と見込んだ選手の育成のためにはあえて鉄拳制裁や自身の首をかけることも辞さなかった。1978年オフには監督辞任を表明したが、「俺たちを見捨てないでくれ!」と選手に引き止められて辞任を撤回し、1979年・1980年とリーグ二連覇を達成。選手にこれほど慕われた監督は珍しく、勇退表明後、最後の試合となった1981年10月4日の近鉄対阪急最終戦(日生球場)では試合終了後に両チームの選手から胴上げされた。 阪急の監督を勇退した次のシーズンから同一リーグである近鉄の指揮を執ったが、このときは近鉄側から阪急の森薫オーナーに対して近鉄の監督に迎えたいという要請があり、森オーナーも本人の意向に任せるとしてこれを承諾した。近鉄との契約の席には森と近鉄社長の今里英三が同席する異例の形となった。このため、後に野村克也や星野が阪神の監督に就任したときのような非難めいた議論は当時起きなかった(また、野村や星野の阪神監督就任時にこの西本の前例にはほとんど言及されなかった)。西本は戦前・戦後の野球界の実情を知る数少ない人物でもあっただけでなく、鶴岡一人、千葉茂亡き後、日本プロ野球界において川上哲治に次ぐ重鎮中の重鎮として多大な影響力を持ち、西のドンとも呼ばれた人物であった。 西本の教え子には阪急時代には米田哲也、梶本隆夫、足立光宏、森本潔、長池徳士、福本豊・山田久志・加藤秀司の「花の44年トリオ」、近鉄では鈴木啓示、佐々木恭介、梨田昌孝、羽田耕一、平野光泰、井本隆、栗橋茂、柳田豊などが挙げられる。指導者について厳しい評価をすることで知られている広岡達朗は自著『意識革命のすすめ』で、西本をその育成能力の高さから、「プロ野球史上最高の監督」として評価している[要ページ番号]。吉田義男は「西本さんは名将であり、名コーチでありました」と話している。 上田利治は「阪急では改めて西本さんのすごさを感じました。本当に野球が好きで、チームを強くしたいという熱い気持ちがある。その分、選手にもなかなか妥協しない。でも、ただ怒るんじゃなくて、俺がここまでやるんだからお前もと引っ張る感じですね。厳しさと優しさがあった」、「あの情熱と責任感、忍耐力。決して自分が表に出るわけじゃなく、しゃべる人でもなかったけど、ひとつひとつの言葉が重かった。戦争体験も大きく関係してると思うけど、もうああいう監督、リーダーは出てこんでしょうね」と西本について語っている。西本の近鉄監督時にコーチを務めていた仰木彬は、近鉄監督就任時の会見で「目標は将来につなぐ為に若い選手を育成し、勝つこと。私は三原さんから知を学び、西本さんから情熱を学んだ。お二人の足したような野球がやりたい」と抱負を語っていた。 阪急監督時代、「良い外野手を作るには良いノッカーを作らなければならない」という考えから、当時打撃コーチだった中田昌宏に速く伸びる打球を打つように練習させた。福本豊は「ノックを受けた阪急の外野手は、そりゃうまくなりましたね」と振り返っている。 後述にもあるが、「殴る監督」として有名であった。試合中は常にピリピリとした雰囲気があり、手抜きや怠慢と見られる自軍のプレーに対しては容赦なく拳を振るった。ただし、あくまでも「厳しいのはグラウンドの中だけ」というのが基本で、余程のことでなければグラウンド外に怒りを持ちだすことはしなかったという。
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監督・指導者として
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在任7年間で978試合558勝378敗42分け(勝率.596)を記録。クライマックスシリーズの通算成績は24勝8敗で、敗退したのは日本ハムとの2016年ファイナルステージのみだった。日本シリーズは出場5度で20勝4敗1分で、全て日本一を手にした。日本シリーズは2018年第3戦から退任まで12連勝、ポストシーズン全体では2019年ファーストステージ第2戦から16連勝と短期決戦に無類の強さを誇った。 ペナントレースでも3度のリーグ優勝を成し遂げたが、2016年は北海道日本ハムファイターズに最大11.5ゲーム差を逆転されリーグ優勝を逃した。後に工藤は「自分の思っている野球だけでは勝つことはできないし、強いチームはできない。それからは選手にアドバイスする時も自分の話し方や言葉の使い方を変えながらやっていけるようになった。」と述べ、「自分にとっては転機になる1年だった。」と振り返っている。 翌年の2017年は正捕手の固定に向け、育成選手出身の甲斐拓也を抜擢。2018年からは甲斐が試合や練習で感じたことをその日のうちにつづり、工藤がチェックする「交換日記」を始めた。また、シーズン中には遠征先の部屋に甲斐を招いて3, 4時間ほど対話をすることもあった。甲斐は後にゴールデン・グラブ賞を5度獲得する球界屈指の捕手に育ち、「めちゃくちゃ厳しかったけど、その中に愛情があった。1人の人間、社会人、野球人としてたくさん教えてくれたのも、キャッチャー甲斐拓也をつくってくれたのも工藤監督だった」と感謝を口にしている。 2020年は新型コロナウイルスの感染拡大によりシーズン開幕が延期される中、複数の開幕予定日を想定し、そこへ向けた選手の調整法を何通りにも渡って自宅でシミュレーションしていた。結果としてこの年は3年ぶりのリーグ制覇及び日本シリーズ4連覇を達成している。 キャンプでは「長く現役でやるのに必要なものを作り上げる為」におよそ10種類ほどのメニューを考案し、強化指定選手を指導。メディアからは「工藤塾」と呼ばれた。 練習後には選手全員が悲鳴を上げながらバタリとその場に倒れこむほどハードな練習だったが、強化指定を受けた千賀滉大、岩嵜翔、東浜巨らは後にチームの主力として活躍している。また、投手部門には巡回コーチを配置し、三軍を抱える大所帯の中でも選手に一貫した指導を行えるシステムを構築した。 自宅の仕事部屋には選手の成績、データ、コンディショニングの分析のほか、組織づくりや故障防止についての考えをまとめたファイルが並んでいる。また、試合中にメモするノートとは別のノートに選手やコーチに伝える内容を整理するルーティーンを監督就任以降欠かさず続けていた。
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