監督・指導者としてとは? わかりやすく解説

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監督・指導者として

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/13 15:57 UTC 版)

西本幸雄」の記事における「監督・指導者として」の解説

20年間の監督生活で8度リーグ優勝果たしながら、日本シリーズでは1度日本一就けず、「悲運名将と言われた。ただし西本当人自分が「悲運名将と言われることには否定的で、「もし、私が本当に悲運なら戦争死んでいるし、復員してからも野球再会できたり、大毎阪急・ここ(近鉄)の3チーム素晴らし選手巡り合えて、8度日本シリーズ出場などできない。“悲運名将”なんておこがましい敢えて言うなら“幸運な凡将”ですね(笑)」と語っている。3つのチーム優勝導いた監督は、プロ野球史上西本三原脩星野仙一のみである(2020年現在)。三原指揮したのが1リーグ時代巨人セ・パ両リーグから1チームずつ(西鉄大洋)、星野セ・リーグ中日阪神パ・リーグ楽天だったのに対し西本指揮したチームはすべてパ・リーグであり、現役時代含めてパ・リーグ一筋野球人生だった。 阪急近鉄時代には時間をかけて選手育てチーム作り変え弱小球団常勝軍団へと導いた2球団を優勝導いた監督前記三原星野以外にも複数いるが、西本のように、2チームで自らチーム土台作り上げて優勝させた監督少ないとされる1960年大毎監督辞任1966年信任投票事件1975年羽田殴打事件などに見られるように、チーム強化見込んだ選手の育成のためにはあえて鉄拳制裁自身首をかけることも辞さなかった。1978年オフには監督辞任表明したが、「俺たち見捨てないでくれ!」と選手引き止められ辞任撤回し1979年・1980年リーグ二連覇達成選手これほど慕われ監督珍しく勇退表明後、最後試合となった1981年10月4日近鉄阪急最終戦日生球場)では試合終了後両チーム選手から胴上げされた。 阪急監督勇退し次のシーズンから同一リーグである近鉄指揮を執ったが、このときは近鉄側から阪急森薫オーナーに対して近鉄監督迎えたいという要請があり、オーナーも本人の意向任せるとしてこれを承諾した近鉄との契約の席には近鉄社長今里英三同席する異例の形となったこのため、後に野村克也星野阪神監督就任したときのような非難めいた議論当時起きなかった(また、野村星野阪神監督就任時にこの西本前例にはほとんど言及されなかった)。西本戦前・戦後野球界実情を知る数少ない人物でもあっただけでなく、鶴岡一人千葉茂亡き後日本プロ野球界において川上哲治に次ぐ重鎮中の重鎮として多大な影響力持ち、西のドンとも呼ばれた人物であった西本教え子には阪急時代には米田哲也梶本隆夫足立光宏森本潔長池徳士福本豊山田久志加藤秀司の「花の44年トリオ」、近鉄では鈴木啓示佐々木恭介梨田昌孝羽田耕一平野光泰井本隆栗橋茂柳田豊などが挙げられる指導者について厳し評価をすることで知られている広岡達朗自著意識革命のすすめ』で、西本をその育成能力の高さから、「プロ野球史上最高の監督」として評価している[要ページ番号]。吉田義男は「西本さんは名将であり、名コーチありました」と話している。 上田利治は「阪急では改め西本さんのすごさを感じました本当に野球が好きで、チーム強くしたいという熱い気持ちがある。その分選手にもなかなか妥協しないでも、ただ怒るんじゃなくて、俺がここまでやるんだからお前もと引っ張る感じですね。厳しさ優しさがあった」、「あの情熱責任感忍耐力決し自分表に出るわけじゃなく、しゃべる人でもなかったけど、ひとつひとつ言葉が重かった。戦争体験大きく関係してると思うけど、もうああいう監督リーダー出てこんでしょうね」と西本について語っている。西本近鉄監督時にコーチ務めていた仰木彬は、近鉄監督就任時の会見で「目標将来につなぐ為に若い選手育成し、勝つこと。私は三原さんから知を学び西本さんから情熱学んだお二人足したような野球やりたい」と抱負語っていた。 阪急監督時代、「良い外野手作るには良いノッカーを作らなければならない」という考えから、当時打撃コーチだった中田昌宏速く伸びる打球を打つように練習させた。福本豊は「ノック受けた阪急外野手は、そりゃうまくなりましたね」と振り返っている。 後述にもあるが、「殴る監督」として有名であった試合中は常にピリピリとした雰囲気があり、手抜き怠慢と見られる自軍プレーに対して容赦なく拳を振るった。ただし、あくまでも厳しいのはグラウンドの中だけ」というのが基本で、余程のことでなければグラウンド外に怒り持ちだすことはしなかったという。

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監督・指導者として

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/13 16:25 UTC 版)

工藤公康」の記事における「監督・指導者として」の解説

在任7年間で978試合558勝37842分け勝率.596)を記録クライマックスシリーズ通算成績24勝8敗で、敗退したのは日本ハムとの2016年ファイナルステージのみだった。日本シリーズ出場5度20勝4敗1分で、全て日本一を手にした。日本シリーズ2018年第3戦から退任まで12連勝ポストシーズン全体では2019年ファーストステージ第2戦から16連勝短期決戦無類強さ誇ったペナントレースでも3度リーグ優勝成し遂げたが、2016年北海道日本ハムファイターズ最大11.5ゲーム差逆転されリーグ優勝逃した。後に工藤は「自分思っている野球だけでは勝つことはできないし、強いチームできない。それからは選手アドバイスする時も自分話し方言葉の使い方変えながらやっていけようになった。」と述べ、「自分にとっては転機になる1年だった。」と振り返っている。 翌年2017年は正捕手固定に向け、育成選手出身甲斐拓也抜擢2018年からは甲斐試合練習感じたことをその日のうちにつづり、工藤チェックする交換日記」を始めたまた、シーズン中には遠征先の部屋甲斐招いて3, 4時間ほど対話をすることもあった。甲斐は後にゴールデン・グラブ賞5度獲得する球界屈指の捕手育ち、「めちゃくち厳しかったけど、その中に愛情があった。1人人間社会人野球人としてたくさん教えてくれたのも、キャッチャー甲斐拓也つくってくれたのも工藤監督だった」と感謝を口にしている。 2020年新型コロナウイルスの感染拡大によりシーズン開幕延期される中、複数開幕予定日想定し、そこへ向けた選手調整法を何通りにも渡って自宅シミュレーションしていた。結果としてこの年3年ぶりのリーグ制覇及び日本シリーズ4連覇達成している。 キャンプでは「長く現役でやるのに必要なもの作り上げる為」におよそ10種類ほどのメニュー考案し強化指定選手指導メディアからは「工藤塾」と呼ばれた練習後には選手全員悲鳴を上げながらバタリその場倒れこむほどハードな練習だったが、強化指定受けた千賀滉大岩嵜翔東浜巨らは後にチーム主力として活躍している。また、投手部門には巡回コーチ配置し三軍抱え大所帯中でも選手一貫した指導行えシステム構築した自宅仕事部屋には選手の成績データコンディショニング分析のほか、組織づくりや故障防止についての考えをまとめたファイル並んでいる。また、試合中メモするノートとは別のノート選手コーチ伝え内容整理するルーティーン監督就任以降欠かさず続けていた。

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