大毎監督辞任
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チームをリーグ優勝に導いた1960年の日本シリーズ終了後、在任わずか1年で西本は大毎監督を辞任する。その原因は、日本シリーズの采配にあった。三原脩監督率いる大洋の先勝で迎えた第2戦(10月12日、川崎球場)の8回表、大毎は、まず先頭打者の坂本文次郎がセーフティ・バントで出塁、続く田宮謙次郎の時に土井淳のパスボールで坂本が進塁、田宮も四球を選ぶ。さらにこの試合で本塁打を放っていた榎本喜八にバントを命じてランナーを送らせ、1死二・三塁のチャンスを作った。ここで大洋は先発・権藤正利をあきらめ、アンダーハンドのエース秋山登を投入し、山内一弘を敬遠させ、次の谷本稔と勝負する作戦に出た。谷本の第1打のファウルの後、西本はスクイズプレイのサインを送った。第2打で、谷本はサイン通りスクイズを仕掛けたが、打球はグラウンドでバウンドして捕手・土井の方向に転がった。土井は即座にボールをつかむと、本塁に駆け込んできた坂本にタッチした後、一塁に送球して打者走者の谷本を刺しダブルプレーとした。結局大毎はこの試合を落とし、2連敗を喫した。 大毎のオーナー・永田雅一は試合をプロ野球関係者と一緒に観戦していたが、このスクイズを「今のはどうなの?」と聞くと、その関係者は今の場面でスクイズはありえない、と説明したため、試合後、永田は西本に電話を入れ、「ミサイル打線を誇る大毎が、好機にバントなどというアホらしい作戦を採るとは何事か!!」とスクイズの件を非難した。しかし西本も「打線の状態は私が一番熟知しているので、ご安心下さい」と主張して退かなかった。このシーズン、大毎は18連勝(1引き分け挟む)するなど快調に飛ばしていたが、終盤失速し、優勝を決めたのは最終戦の2試合前だった。 その後、永田の「あのバントはない。評論家もみなそう言っている」という言葉に、西本が「作戦は監督が決めるものです。だからこそ責任もとる。しかし、無責任な評論家が事後にいうことによって何かを言われるのは心外です」と反論したため、永田は激怒。「馬鹿野郎!!」と西本を罵り、西本は「馬鹿野郎とはなんですか、撤回していただきたい」と取り消しを求めた。しかし永田は応じず、そのまま電話を切ってしまい、会話は終わった。結局、日本シリーズは大毎のストレート負けで終わり、西本は現役時代から所属した大毎を実質的な解任で去った。伊集院光によると、TBSに入社した永田の孫の守は「もし横浜(TBSは大洋の後身である横浜を2002年に買収)が優勝を狙えるチームになったら、西本さんを監督に招いて、『これで亡き祖父を許してくれないか』と伝えたい」と語ったという[要出典]。 当時大毎のスカウトを務め、永田雅一のもとにいた青木一三は、西本の監督退任について以下のように記している(要約)。「永田はシリーズ終了後に一応西本が挨拶に来るのを待っていたが、毎日新聞系の球団幹部が西本を温泉に「隔離」して会わせなかった。これを大映と毎日の「二頭政治」の弊害だと考えた永田は経営を大映に一本化して毎日側の役員を退任させ、同時に毎日側の役員が就任させた西本も合わせて退任した。」 これに対して西本は1967年の座談会で、シリーズ終了後2日ほど自宅に帰る気になれず「雲隠れ」したものの、青木が言うようなことはなかったと発言。戻ったあとに後援者などによる「残念会」の席で「4連敗についてはおわびせにゃいかんな」と電話のダイヤルを回しかけたが、「もうやめたらどうか」という声が参加者からあがったため、かけずにそのままになり、足を運んでお詫びをする気にもならないでいたところ、監督やスタッフが決まっていたと述べている。西本はその後永田のもとに出向いて「お世話になりました」とだけ挨拶したという。西本は2001年のインタビューでは「解任されたのか自分から辞めたのか、どちらかよくわからない」と語っている。 沢木耕太郎は、西本が監督を辞めたことにより、「(永田は)オリオンズの黄金時代を築ける芽を潰してしまった」と指摘している。西本の次になった監督は、同年にセ・リーグで国鉄を最下位にしてクビになっていた宇野光雄であり、永田が宇野を選んだ理由は「元巨人の選手(知名度がある)」だったからであった。しかし宇野の指揮能力はお世辞にも高いとはいえず、1961年7月25日の東映戦では代打に須藤豊を送ろうとした際に配慮のない言葉を掛けて須藤に怒鳴り返されるなどそれまでの上位チームらしい緊張感に満ちた雰囲気が弛んでしまい2年連続4位に終わって辞任。これ以降オリオンズは低迷するようになり、永田は監督に苦労し、後の山内一弘のトレード放出などによる「ミサイル打線」の解体に繋がった。西本は後年に「公平に見て、本来なら3・4年はミサイル打線をもつオリオンズの天下が続いたはずや」と述べている。 第2戦のスクイズの采配は波紋を呼び、更に大毎は第3戦・第4戦と続けて1点差で敗れた。これによって敵将の三原監督は、このシリーズを観戦していた石原慎太郎に「三原はおそらく当代のヒーローだろう」と賞賛されるなど、声価を高めた。一方、シリーズ終了後に西本は三原と比較され、特に第2戦のスクイズの采配に批判が集中した。監督1年目にしてリーグ優勝という功績は忘れ去られ、多くの評論家が西本にクレームをつけた。西本は後年、「今でもあのスクイズが誤りとは思っていない」と語っている。
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