大毎時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/02 22:50 UTC 版)
阪神時代に続いて主に三番、五番打者を任された。1960年には前半戦は二番打者、後半戦は一番を打ち、打率.317(2位)の成績を残した。首位打者を獲得した榎本喜八、本塁打・打点の2冠を獲得した山内一弘(打率は3位)との3人でリーグの打率上位3傑を独占。「ミサイル打線」の一翼を担い、同年のリーグ優勝に大きく貢献した。大洋ホエールズとの日本シリーズでは全4試合に中堅手として出場。チーム日本一はならなかったが、第3戦からは四番打者として起用され、14打数5安打1打点を記録した。同シリーズの敢闘選手賞を獲得。1961年は自己最高となる打率.328(リーグ3位)を残す。1962年も打率.308に到達したが、1963年には本堂保次監督から冷遇されて先発出場が減少。規定打席に到達できず、この年限りで現役を引退。終身打率3割に惜しくも3厘届かなかった。
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