毎日・大毎時代
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プロ1年目の1952年(昭和27年)、チームの先輩である別当薫の打撃フォームを参考にして熱心に打撃練習に取り組む。やがてその熱心さと素質を見抜いた若林忠志(当時の毎日二軍監督)は山内を積極的に二軍戦で起用し、6月には一軍戦で初出場を果たす。同シーズンは44試合出場ながら、打率.336の成績を残した。 プロ2年目の1953年にはレギュラー定着を期待されながら長期にわたり病気療養したが、シーズン中盤から3番打者に定着し53試合に先発出場。3年目の1954年にバットをプロ入り当時の35インチ・約940 gの重いルイビルスラッガー社製バットから、34.5インチ、910 - 930 gの短く軽いものに変えた。同年にはクリーンアップに定着して不動のレギュラーを確保し、公式戦にフル出場。打率.308(パ・リーグ4位)、28本塁打(中西太に次ぐ2位)を記録。打点ではラリー・レインズ(阪急ブレーブス・96打点)を制し、97打点を挙げて打点王のタイトルを獲得。当時のパ・リーグ記録となる80四球を選んだ。 翌1955年も打率.325・26本塁打(いずれも中西に次ぐリーグ2位)と活躍し、99打点の成績を残して2年連続の打点王に輝く。 1956年は打率.304・25本塁打・72打点の成績を残す。同年はシーズン47二塁打を記録したが、この記録は1998年にフィル・クラーク(近鉄バファローズ)が更新するまで日本プロ野球 (NPB) 記録だった(2020年時点ではNPB史上5位タイ記録)。また、76長打は当時のパ・リーグ記録。 「毎日オリオンズ」としての最終年となった1957年には打率.331の好成績で首位打者を獲得。野村克也(南海ホークス・30本塁打)におよばず本塁打王は逃したが、29本塁打を放っている。同年11月28日、毎日球団は大映ユニオンズと合併して「毎日大映オリオンズ」(大毎オリオンズ)となった。「大毎オリオンズ」元年の1958年はパラチフスにより長期の戦線離脱を余儀なくされ、規定打席にも到達できなかった。 1959年1月30日に結婚。同年は前年の汚名返上に向け、オールスターゲーム第1戦でMVPを獲得し、シーズン途中まで三冠王を狙えるほどの活躍をしていたが、8月27日の対近鉄バファロー戦でグレン・ミケンズから顔面に死球を受けて担架で退場。これにより三冠王の夢は絶たれ、チームも首位から転落した。しかしシーズン後半に復帰し、杉山光平(南海)と首位打者争いを繰り広げ、死球への恐怖も克服した。10月20日に開かれた対南海最終戦(ダブルヘッダー)を迎えたが、2試合で6連続四球を与えられた。最終的な打率は山内が.320(リーグ2位)、杉山は.323(リーグ首位打者)で、山内は安打2本差で首位打者を逃した。しかし、同年は25本塁打を記録して初の本塁打王を獲得。また同年8月16日の対東映フライヤーズ戦では、土橋正幸から通算150号本塁打となる逆転サヨナラ満塁本塁打を放っている。 「闘将」西本幸雄が大毎の新監督に就任した1960年、山内は田宮謙次郎・榎本喜八・葛城隆雄らとともに「大毎ミサイル打線」の中軸を担った。同年は打率.313、32本塁打・103打点の好成績を残し、本塁打王(2年連続・2回目)と打点王(3回目)を獲得して打撃二冠に輝いた。また同年の大毎はパ・リーグ優勝を果たし、自身もMVPを受賞。チームは6月5日の近鉄戦で勝った後、6月29日の近鉄戦までの18試合を92得点、44失点という成績で乗り切り、1954年の南海に並ぶ日本タイ記録となる18連勝を達成している。しかし、同年の大洋ホエールズとの日本シリーズでは「三原魔術」と言われた大洋・三原脩監督の采配の前に、すべて1点差で4連敗を喫した。 翌1961年も打率.311、25本塁打・112打点の成績を残し、2年連続で打点王(4回目)を獲得した。同年の112打点は当時のパ・リーグ記録。同年オフ、ファンから「『和弘』の“和”の字はまるいという表現があり、ぐるぐる回り道をしたり曲がった道を進むようだから変えたほうが良い。“和”の字を音が同じ“一”にすれば一から数が無限に続くので、選手としても良いし将来コーチや監督にもなれるのではないか」とアドバイスを受け、1962年のシーズン途中(30歳の誕生日となった5月1日)に「和弘」から「一弘」に改名。同年はブルーム(近鉄バファローズ・打率.374)に次ぐパ・リーグ2位の打率.334を記録した。
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