法性寺 (墨田区)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/09/15 08:13 UTC 版)
法性寺(ほっしょうじ)は、東京都墨田区業平五丁目にある日蓮宗の寺院。
- ^ a b c d 新編武蔵風土記稿柳島村.
- ^ 行基菩薩開山と伝わる下総国随一の古刹。日蓮の高弟・六老僧の1人である伊予阿闍梨日頂と日頂の義父である富木常忍が、時の住持・了性法印尊信を法論の末に帰伏させ、以後は日頂門流(真間門流)の根本寺院として栄えた。
- ^ 比企谷妙本寺と池上本門寺は、昭和16年(1941年)まで一人の住職が二ヶ寺を管理する「両山一首制」によって護持されていた。池上本門寺創建から安土桃山時代までの約300年間は比企谷妙本寺を本拠地として貫首が在山したが、天正19年(1591年)に両山12世・日惺が徳川家康の江戸入府に伴い池上本門寺に本拠を遷した。この為、貫首不在となった比企谷妙本寺には別当職に相当する「司務職」を置き比企谷全山を総理統監させた。なお歴代司務職には塔頭首座・本行院の住職が就任する慣わしとなった。
- ^ 「変則三山一首制」とも称すべきこの現象は、日頂門流と日朗門流が対等性を確保しつつも一体化しているという事実を示している。実際に江戸時代に編纂された『諸宗末寺帳』では「長興山妙本寺・長榮山本門寺」と「真間山弘法寺」は別立であって本末関係にはない。詳しくは参考文献を参照の事。
- ^ 法類・法縁とは、同じ宗旨・宗派に属し密接な関係を持つ僧侶並びに寺院のこと。
- ^ なお、明治5年(1873年)に明治政府の宗教政策によって「一宗一管長制」が導入された結果、弘法寺が大本山池上本門寺傘下の一本山として位置づけられ、それまで対等であった日朗・日頂両門流の均衡が崩れた。このような経緯から、現在では日朗・日頂両門流を併せて「池上門流・池上法類」と総称されている。
- ^ 「妙見大菩薩」として以下のように記されている。原文は参考文献を参照の事。
“亀戸の萩寺(龍眼寺)から見て横十間川の反対側、柳島橋を越えた角にある日蓮宗法性寺に安置されている。この妙見大菩薩がいつ頃どのような理由で安置されたのかは詳しく分かっていないが、近年つとにその霊験が有名になり参詣に訪れる人が絶えない。妙見堂の前には影向松という名の霊木があり、妙見大菩薩が初めて姿を現したのがこの松の上である事から「星下り松」や「千年松」とも呼ばれている。また、元和年間に将軍・徳川秀忠公がこの地を訪れられた際に「鏡の松」という名を賜ったと言い伝えられている。”
なお『新編武蔵風土記稿』にも同様の趣旨が記されているが、「日遄が霊夢を体験して感得した(祭祀した)もの」という法性寺に伝わる縁起も併記されている。 - ^ 錦絵で楽しむ江戸の名所 ~柳嶋妙見堂~ を参照の事。なお、当時法性寺の北側(現在の業平五丁目15番・浅草通りの辻向かい)には若鮎料理で名を馳せた橋本という料亭があり、参詣帰りの客で賑わう様子が錦絵に残されている。
- ^ a b 墨田区登録文化財一覧.
- ^ 小西檀林正法寺及び平河山法恩寺在山時には“日延”と名乗っていた。
- ^ 東山檀林在山時には“日領”と名乗っていた。
- ^ 東山檀林在山時には“日現”、仏国寺在山時には“日慶”と名乗っていた。
- ^ 法性寺在山時には“日喜”と名乗っていた。
- ^ 東山檀林在山時には“日深”と名乗っていた。
- ^ 徳善寺在山時には“玄定院”と名乗っていた。
- ^ 旧姓は蒲生並びに江間。
- ^ 大正年間に日照山長明寺(東京都台東区谷中)に合併された。
- ^ 真浄寺在山時に名乗っていた。
- ^ 33世・本地院日衞が本蓮寺の住職であった時代に執事として仕えていた。明治37年(1904年)3月には、師である妙地院日亀(久保田戒静:比企谷妙本寺・池上本門寺両山68世)の命により当時日蓮宗寺院が1ヶ寺も存在しなかった鹿児島県に派遣され鹿児島開教総監に任命された。以後、鹿児島を中心に沖縄・宮崎・熊本の各県へと教勢を拡大した。
- ^ 現在の経王山妙源寺。
- ^ 覺源院在山時には“日優”と名乗っていた。
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