柳嶋法縁
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 23:37 UTC 版)
この流れの中で日頂門流系の寺院には飯高檀林城下谷(ねごやさく)出身の学僧が多く入寺するようになり、江戸時代中期には大きく2つの法縁 が成立する。1つが光照山感應寺を縁頭寺(中心寺院)とする堺感應寺法縁であり、もう1つが法性寺を縁頭寺とする柳嶋法縁である。この柳嶋法縁の縁祖と仰がれるのが18世・玄玄院日顓である。 東山檀林の化主を務めた後の天明8年(1788年)に法性寺に入寺し、諸堂の全面改築と境内の拡張に尽力する事17年。文化2年(1805年)廣布山妙國寺に栄晋し権少僧都に任じられた。その後、同4年(1807年)には権大僧都、同6年(1809年)には大僧都に昇進し法印に叙せられ、同7年(1810年)には僧正に任じられた。更に妙國寺晋山後に正中山法華経寺に栄晋、最終的には比企谷池上両山の准歴にも叙せられ、文政2年(1819年)3月25日に64歳で遷化した。日顓の後、歴代住職には東山檀林の化主が迎えられ比企谷池上両山・弘法寺・龍水山海長寺等の貫首を輩出するなど、日朗・日頂両門流の重要寺院として名声を高めていった。
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