柳川の志士
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/01 14:39 UTC 版)
幕末期の藩内では、尊王攘夷派として名を知られるになっていた。安政6年(1859年)父が没したため家督を継ぐが、後に脱藩し、真木保臣について上京を図るが失敗。一時国事奔走を断念するが、各藩の志士たちは御楯を頼って身を寄せ、出費がかさんで資産を失った。また、平野国臣、高杉晋作、大村益次郎らと交わり、朝鮮に渡ろうとして失敗。帰藩を請い許されたという。慶応元年(1865年)第二次長州征討で柳川勢として従軍中、久留米軍中にいた三雄と再開。軍を脱して大宰府に向かい、小倉城自焼の惨状の図を三条実美に呈した。実美はこれを喜び歌を詠じて御楯に与えたが、その中に「君が為め御楯となる」とあり、これに感銘して号とした。
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