国事奔走とは? わかりやすく解説

国事奔走

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 16:02 UTC 版)

森寛斎」の記事における「国事奔走」の解説

幕末政情不安が起こると、長州人の寛斎も火中飛び込んでいく。絵師としての身分表向き徹山の実子だったのを隠れ蓑に、自宅勤王志士たちの密会の場にしたという。その中には山縣有朋品川弥二郎などもおり、特に品川との交流その後長く続き品川から寛斎へ宛てた手紙多く残っている。また、北垣国道生野の変後に長州潜伏中間諜間違えられ首を刎ねられそうになるも、たまたま通りがかった寛斎の取り成しによって生き延びた北垣はこれを深く感謝し後年になって任地先からしばしば酒を贈っている。寛斎自身京都様子伝えるため、何度も長州京都往復し一時新撰組関三十郎からも命を狙われたという。とはいえ、完全に絵筆捨てたわけでは無かった1855年安政2年)の御所造営でに一と共に参加し、寛斎は常御殿杉戸絵に「帰去来」「赤壁」を描き各地この頃作品確認されている。例えば徹山が出入り絵師務めていた金毘羅神社との関係を引き継いでしばしば訪れ応挙障壁画などを補修しつつ、その画技を学ぶ。また数度渡って倉敷素封家萩野家を訪ねており、同じ倉敷にある野崎塩業歴史館に寛斎の作品数十所蔵されている。こうした活躍からか、1865年慶応元年萩藩には25俵で召し抱えられ藩の御用絵師となるが、1870年明治3年)絵に専念するため賞典返上帰商願を藩に提出。藩はこれを認めて恩典に金100両を贈り、寛斎はお抱え絵師身分離れて上洛する。

※この「国事奔走」の解説は、「森寛斎」の解説の一部です。
「国事奔走」を含む「森寛斎」の記事については、「森寛斎」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「国事奔走」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「国事奔走」の関連用語

国事奔走のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



国事奔走のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの森寛斎 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS