国事周旋方と長征軍
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/11/17 14:01 UTC 版)
文久3年(1863年)国元岡山へ帰着。同年親兵(禁闕御守護兵)として京都御所守衛を務める。元治元年(1864年)6月国事周旋役となり、周旋・探索・外交に当たることになる。7月19日に起こった禁門の変の翌日、長州追討の勅令が発せられ、岡山藩が先鋒を命じられた。藩は「長州の内情を探索し悔悟の念がはっきりすれば周旋すべきである」として、弘道を密使として岩国へ派遣した。津田の長州・安芸探索が備前藩論転換の契機となり、藩の長州支援・征長軍反対の立場が定まった。第一次征長軍尾張総督に対して弘道らは阻止周旋に東奔西走し、西下速度を鈍らせ気勢をそいだ。
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