国事への関与
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/29 13:46 UTC 版)
天保10年(1839年)老後身寄りのなかった剣術の師、近江八幡出身野田昌助正吉を気候のよい紀州に迎え、湯浅に稽古場を創設したが、天保13年(1842年)死没した。また、水戸出身倉田七郎重任を招聘した。 嘉永2年(1849年)災厄により精神を病み、詩を作れなくなり、嘉永3年(1850年)8月快復した後も、詩作の勘は戻らなかった。 嘉永3年(1850年)2月藩に「海防建議」を上書して海防の必要性を訴えたところ、同年有田郡・日高郡文武総裁に任命され、寛永年間創設、文化8年(1811年)3月再興された農兵組織浦組の増強に当たり、湯浅村大庄屋数見清七と協力し、両郡から成人男子3000人を徴発し、月数回武術の訓練を行った。江戸では佐久間象山に海防・砲術を学び、同郷浜口梧陵を象山に引き合わせた。 嘉永6年(1853年)黒船来航を受けて、12月数見清七と古銅を収集して、嘉永7年(1854年)ランゲ砲1門・六封度砲3門を鋳造し、2月15日和泉国大和川で演習し、広村天王の浜・湯浅村・栖原村・箕島村に設置した。安政元年(1854年)9月16日ロシア船が宮崎ノ鼻を通過した際には、浦組も大砲をもって出動した。慶応元年(1865年)9月外国条約勅許に伴い浦組は解散した。 文久3年(1863年)1月友ヶ島巡検中の幕閣小笠原長行・勝海舟に自宅を訪問され、政務について献策した。慶応元年(1865年)5月藩主徳川茂承が第二次長州征伐総督を命じられると、これを断るよう建言したが、聞き入れられなかった。 明治元年(1868年)大原重徳を通じて朝廷に「風紀論」「租税篇」「貿易法」を献上したところ、12月重徳より上京を促され、木屋町柏亭に逗留し、本報寺で藩主に会見し、重徳にキリスト教について意見を述べ、長州藩士広沢兵介の招きで根楽上総邸で同藩主にも会見した。 明治2年(1869年)2月15日代官制が廃止され、湯浅道町に有田郡民政局が置かれると、孔雀之間席・有田郡民政副知局事に任命され、山下道心による農兵のプロシア式調練、郷学所の開校、養蚕業・製茶業の奨励等を手がけ、8月辞任した。
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