国主即位後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/28 04:25 UTC 版)
装伯(そうはく) (五丈国武官→五丈国将軍→五丈国偏将軍) 造船総監 装民の息子。ただし単行本の人物紹介では「甥」、最終巻では「養子」と記述されていた。父の作った巨砲を自走砲艦に生まれ変わらせた。二代目金剛の設計者でもある。 また、一軍を任される将でもあり、南征では慎重な戦運びをする。 孟起(もうき) (五丈国将軍→五丈国征東将軍→右将軍) 五丈国大将軍 孟閣の息子。六紋海合戦では遊軍を率いて参戦、父と共に活躍する。 西羌国の造反で、斉王都が奪われ、父の戦死の報を聞き自ら志願し竜我に帯同する。その後、雲海将軍と共に西羌国に進行し、これを征討する。 呂朱(りょしゅ) (五丈国武官→五丈国奮威将軍→五丈国揚武将軍) ノーヘルメットが多い新生 五丈軍武将のなかで、珍しく兜を被った将軍。 竜我の偽帝討伐戦の際に、骸羅派の太守を殺して南京楼軍に参戦し、その功により奮威将軍に任命される。 鐘才(しょうさい) (五丈国武官→五丈国鎮南将軍→五丈国前将軍) 郡の下級官吏から鎮南将軍にまで登りつめた苦労人。六紋海合戦の際には後方遮断の任務につき戦功をあげる。 陳群(ちんぐん) (五丈国将軍→五丈国荷駄奉行) 六紋海会戦にて初登場し、「泥の星」の海峡を機雷で封鎖する任務を受ける。 第2次南征では荷駄奉行を拝命し、大王理占領時に酒を配布するが、以後は登場しない。 呂朱とは少し意匠の異なる兜を被り、髭を生やしていた。単行本の人物紹介に名前と経歴が載ることがなかった、謎の武将。 秦公旦(しんこうたん) (西羌国王子→五丈国客将→五丈国飛衛将軍→五丈帝国大将軍→五丈帝国元帥) 西羌王 秦馬の子。竜我のたっての懇願で五丈軍の一翼を担うようになる。もっともこれは秦公旦の軍才を買っていたというのではなく、兄弟の中で最も非才と言われ、西羌王秦宮括にとって不安の種であった公旦を活躍させることで、公旦を五丈シンパにすると共に、西羌を親五丈にしようとする政治的側面が強い。 兄達と比べ軍才に劣るといわれているが、兄弟の中では最も情勢を理解しており、母の皇太后より五丈への反乱を促す書状に対し、天下が安寧へと向かっている最中での乱を起こすことの無為を配下の将に告げ、竜王にも事の次第を余す事無く報告する。五丈の武将達から疑惑の目で見られるが、配下を説得する様子を林則嘉が目撃していたことで、信用される。 なお、秦宮括からは「文武共にさっぱりで、身体も弱い」と評されていたが、南天の将校を独力で討ち取ったこともあり、人並み以上の戦闘能力は持ち合わせている。 竜我が帝位についた際、大将軍に任ぜられる。 <異聞>元帥に昇格した彼が登場する。 宋忠(そうちゅう) (五丈軍将軍→戦死) 五丈軍近衛軍副将、雲海の部下。六紋海の戦いにて「妊娠中の適度な運動」に勤しんでいた邑峻に挑むも一撃で倒された。 張騫(ちょうさい) (五丈軍武官) 都尉。夷との国境地帯を守る守備隊司令も兼務。交易船団を襲ったジャムカを討伐しようとしたが、策にはまり逆撃を受けた。雷の親征の際、師真の命を受けて項武来襲の噂を流した。 王威(おうい) (五丈軍将軍→戦死) 五丈軍第三軍の一部を率いる将。皇帝親征による海賊ジャムカ討伐の際、ジャムカに斬り捨てられた。
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