国事周旋と天誅
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参勤交代の行列を京都に留めようとする半平太の狙いとは逆に、守旧派は京都に立ち寄らずに江戸への東下を策謀していた。このため土佐勤王党に同情的な大監察・小南五郎右衛門が江戸へ下って老公・容堂に藩主の入洛を説き、遂に容堂は朝命を拝受せよと決断した。8月25日、豊範は京都河原町の土佐藩邸に入り、在京警備と国事周旋の勅命を受けた。 閏8月に半平太と小南五郎右衛門・平井収二郎・小原与一郎・谷守部ら尊攘派が他藩応接役に任じられた。 半平太は周旋活動のために藩邸を離れて三条木屋町に寓居を構え、藩主・豊範の名で朝廷に向けた建白書を起草した。この建白書の内容は、山城、摂津、大和、近江4力国を天皇の直轄地とし、直轄地に配置した親王以下の国司は諸国浪士を家来として召し抱えること、江戸への参勤交代を5年ないし3年に1度へと軽減させることなどを建言すると共に、政令は全て天皇から諸大名へ直接発すべきであるとし、王政復古を主張するなど、時代に先んじたものであった。同時に、長州の久坂玄瑞ら他藩の志士、三条実美や姉小路公知を始めとした朝廷内の尊攘派公卿とも緊密に連携し、朝廷を代表して幕府に攘夷督促する勅使を江戸へ東下させる画策の下、朝廷工作に奔走する。これらの動きが功を奏し朝廷が攘夷の朝議を決定した際、一橋慶喜がこれを覆そうと入京を画策したが、半平太は裏工作によりこれを一時妨害することに成功している。 この時期、京都では過激な尊王攘夷派による天誅、斬奸と称する暗殺が横行し、半平太も少なからず関与していた。 半平太の下で動いた人物では、後に「人斬り」の異名を持つことになる門弟・岡田以蔵と薩摩藩士・田中新兵衛が有名である。半平太が関与したとされる天誅には、越後の志士・本間精一郎の暗殺(閏8月21日)、安政の大獄で志士を弾圧した目明し・文吉の虐殺(9月1日)、石部宿における幕府同心・与力4名の襲撃暗殺(9月23日)がある。しかし、同月に関白・近衛忠煕が半平太に対し洛中での天誅・斬奸を控えるように命じてから後は、半平太の直接指揮による京での暗殺事件は確認されていない。また、侍従・中山忠光から前関白・九条尚忠と岩倉具視ら幕府に通じる三卿両嬪の暗殺のための刺客の貸与を申し入れられたが、これは断り、軽挙を止めさせている。 10月、幕府に対する攘夷督促と御親兵設置を要求する勅使として正使・三条実美、副使・姉小路公知が派遣されることになり、山内豊範には勅使警衛が命ぜられた。警固役には土佐勤王党の者が選ばれ、半平太は姉小路の雑掌となり、柳川左門の仮の名が下賜されて江戸へ随行。勅使の雑掌として江戸城に入城した際は将軍・徳川家茂にも拝謁し、幕府から饗応を受けている。幕府は勅命への対応に苦慮したが、容堂の働きかけもあって曖昧ながら攘夷の勅命は受け入れ、御親兵設置については謝絶している。 また、この時期に長州藩の高杉晋作と久坂玄瑞が横浜の異人館襲撃を計画し、久坂は半平太にも参加を呼びかけるが、久坂の口から土佐勤王党の弘瀬健太がこれに加わっている事を知った半平太は山内容堂に訴えて収拾を乞い、容堂の警告を受けた長州藩世子・毛利定広が高杉らを説諭して襲撃は中止となった。この事件の余波で、長州藩の周布政之助が容堂に放言をして、長州藩士と土佐藩士が衝突しかける騒ぎが起こっている。江戸滞在中に半平太は7回、容堂に拝謁しており、その感激の思いを妻・富子に書き送っている。 12月に役目を終えて京都に戻った半平太は、入京以来の功績に報いる形で上士格留守居組への昇進を命じられる。さらに翌文久3年(1863年)3月には京都留守居加役となった。白札郷士から上士格への昇進は、それまで土佐藩において前例の無いことであったが、同志たちはこれを半平太を勤王運動から引き離すための容堂の策謀と考えた。
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