松前藩
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「歳三〜新撰組箱館戦記〜」の記事における「松前藩」の解説
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松前藩
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豪族の中から台頭した蠣崎氏によって道南で松前藩が成立した。蠣崎季広が天正10年(1582年)に創建した神明社は、明治期に周辺の多数の小神社を合祀して徳山大神宮となった。松前藩では寺社町奉行を置いて宗教統制を行った。江戸期には松前藩を通じて蝦夷地各地へ和人が入るようになり、松前城下を除いても蝦夷地には140の堂社があった。 ※ここで言う「堂社」には、現在は神社とみなされるものと、そうでないものが含まれている。前者には八幡社や恵比須堂、稲荷社などが該当する。後者には観音堂や地蔵堂、薬師堂などがある。これらを明確に区別することは難しい。たとえば函館の湯の川温泉にあった薬師堂は現在は湯倉神社となっている。
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松前藩
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「髪結い伊三次捕物余話」の記事における「松前藩」の解説
国許及び現藩主は良昌を次期藩主にと推しているが、江戸藩邸ではその義弟・章昌を推す声が多く、藤崎らは、良昌に側室を娶らせ、早々に隠居に追い込もうと画策している。 良昌(よしまさ) 松前藩嫡子。14歳。月足らずで生まれ、生死をさまよう病にも何度か罹ったことがあるため、体つきは幼く、御典医から激しい運動も止められている。はっきりと物を言う刑部こと茜を気に入っている。公家出身の母は産後の肥立ちが悪く亡くなった。 道昌(みちまさ) 松前藩主。良昌の父。母は八条家の出である正室で、早くに病で亡くなっている。 章昌(あきまさ) 道昌の次男。良昌の異母弟。身体は丈夫だが、引っ込み思案。 勝昌(かつまさ) 道昌の三男。5歳。風邪が治らぬまま急逝。 お愛の方(おあいのかた) 道昌の側室。勝昌を次期藩主にしようと画策していたが、急死した後は気落ちし、部屋に籠もりきり。父は藩の小納戸役、平塚孫右衛門。 藤崎(ふじさき) 老女。お愛の方からの信頼が厚く、次期藩主が勝昌になることにも賛成の立場。 長峰 金之丞(ながみね きんのじょう) 茜の朋輩。19歳。松前藩の馬廻りを務める長峰隼之助の娘で、薙刀の名手。本名はすて。 佐橋 馬之介(さはし うまのすけ) 茜の朋輩。15歳。幕府の寄合医師・佐橋尚庵の娘。幼い頃から剣術の稽古に励んできた。本名は早苗、男名前を付けられた時は涙ぐんだ。 さの路(さのじ) 御半下。父は幕府小普請組方手代。18歳。茜より1歳年上。父はかつて深見道場に通っていたため、茜の祖父・平吾を尊敬していた。茜が自分と同じ松前藩に奉公することになったことに縁を感じる。 しおり 刑部(茜)の身の回りの世話をする御半下。24、5歳。茜の私物を探っているところを茜本人に見られ、耐えてきたものが一気に崩れた茜により暴力を振るわれる。 村上 堅物(むらかみ けんもつ) 松前藩首席家老。 三省院鶴子(さんせいいん つるこ) 松前藩8代藩主、資昌の側室。実家は下谷の呉服商「栄倉屋」。資昌とは仲睦まじく、5男3女をもうけた。資昌の死後、落飾し三省院を名乗って、本所・緑町5丁目にある下屋敷で暮らしている。義弟でもある村上堅物からの依頼で、上屋敷で問題を起こした茜を預かることになる。 楓(かえで) 鶴子の女中。
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松前藩(室町時代 - 江戸時代)
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「北海道」の記事における「松前藩(室町時代 - 江戸時代)」の解説
室町時代には、渡島半島南端(後の和人地)に和人、渡党、アイヌが居住し、豪族が館を構えていた。和人の築いた道南十二館のひとつである勝山館跡では和人とアイヌの混住が考古学的にも確認されている。当地に割拠していた館主(たてぬし)らは安東氏と被官関係を結んでおり、かれらが北海道に渡った時期は不明であるが、その多くは鎌倉時代に津軽や糠部の北条氏所領の代官層であった侍の子孫とも考えられている。室町・戦国期には本土から和人の渡海者が増え、現地のアイヌとの間に対立が起きたという。近世以前の北海道に関しては松前藩の由緒を記した『新羅之記録』(寛永20年(1643年)成立)があり、同書に拠れば康正3年/長禄元年(1457年)に起きたコシャマインの戦いで、甲斐源氏・若狭武田氏の子孫とされる武田信広がアイヌの指導者コシャマインを殺し、和人の勝利を決した。信広は蠣崎氏を継ぎ、その子孫は後に松前の氏を名乗り、代々蝦夷地の南部に支配権を築いた(松前藩)。 松前藩の経済基盤はアイヌとの交易にあった。安土桃山時代から江戸時代にかけて松前氏は征夷大将軍より交易独占権を認められ、アイヌとの交易条件を自らに有利なものに変えていった。アイヌはシャクシャインの戦いやクナシリ・メナシの戦いで蜂起したものの、松前藩によって鎮圧された。天明4年(1784年)からは蝦夷地の開拓を始め、沿岸にいくつかの入植地が建設された。 江戸時代後期に、ロシアがシベリアから領土を広げつつ日本と通商を求めるようになり、鎖国を維持しようとする日本に北海道近辺で接触した。中にはゴローニンや高田屋嘉兵衛のように相手国の捕虜になった人もいた(ゴローニン事件)。ロシアの脅威に対する北方防備の必要を認識した江戸幕府は、最上徳内、近藤重蔵、間宮林蔵、伊能忠敬といった者に蝦夷地を(樺太・千島列島を含め)探検させ、地理的な知識を獲得した。また、寛政11年(1799年)に東蝦夷地を、文化4年(1807年)には西蝦夷地を松前氏から取り上げた。また、統治機構として享和2年(1802年)に蝦夷奉行を置き、後に箱館奉行、松前奉行と名を変える。幕府の統治はアイヌの負担を若干軽減したが、基本的な支配構造には手を付けなかった。ゴローニン事件解決以降、ロシアの領土拡大的な南下が停滞したため、奉行は文政4年(1821年)に廃され、全蝦夷地は松前藩に還付された。
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