東京の戦災復興計画とは? わかりやすく解説

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東京の戦災復興計画

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/14 19:27 UTC 版)

戦災復興都市計画」の記事における「東京の戦災復興計画」の解説

敗戦後、東京の戦災復興計画は復興事業全体指揮する責任者となる、後の東京都建設局都市計画課長建設局長を歴任する石川栄耀策定よる。これは戦前から石川自身暖めてきたプラン終戦直前立案着手 し法定都市計画化したのである。東京の戦災復興計画は、広幅街路広場緑地帯公園、特別地区緑地地域決定して環状線内側区画整理する雄大なプランで、当時全国各地復興計画同様に都市施設をゆったり採った理想主義的なものであった計画では河川沿いはすべて帯状緑地水辺公園予定しており、高輪小石川駒込などの高台鉄道沿線100m道路沿いに幅員50から100m帯状緑地予定し旧軍用地国有地御料地多く公園緑地にしている。全国大都市復興計画当初案)ではいずれ幅員100m道路計画があるが、実現した名古屋でも二本限定しているのに対し東京では八本計画され、またすべての幹線街路幅員40m以上としている。100m道路のうち40m以上は植樹帯として想定されている。これらによって東京市街地人口15万人単位面積1平方キロメートルブロック分割することで従来35区を再編しそれまで地縁関係からデモクラシー実現するための市民結合図ろうとしている。そのほか東京から工業地帯衛星都市分散させることなどを盛り込んでいる。計画基本方針は明確であったが、東京戦災復興事業全国の他都市比べて事業着手が遅れる。1948年昭和23年)にはすべての罹災地仮設住居が立ち並び戦災復興ではなく既成市街地都市改造のようになっていた。東京の戦災復興計画の具体化には占領軍司令部から吉田茂首相、さらに安井誠一郎東京都知事らは熱心ではなかった。とくに安井知事には、大橋武夫戦災復興院幹部が国と都の共同体制で行うことを勧めたが、都独自で執行するとしてこれを断った安井都市計画スタッフ復興計画とりかかる旨を予想していて、その大復興計画絶対受け入れてならない、寝る家もなく路頭さまよう都民住宅確保こそが最優先課題後世、大復興計画握りつぶし都知事として非難されるだろうが覚悟の上、という有名な言葉残している。したがい復興事業実施にあたって東京都財政支出きわめて不十分であったこうした安井の、都民苦痛少なくするという口実により大規模復興に手をつけなかった事柄について大橋武夫は「選挙目当て」と揶揄している。復興事業立ち上がりの遅れは東京の戦災復興計画の実現には痛手になり、その後ドッジ・ラインによる政府緊縮財政方針追い討ちをかけた。 戦災復興事業の遅れで駅前では闇市並び人口急増1949年昭和24年)、ドッジ・ライン結果戦災復興事業見直し図られる駅前周辺(それも一部)を除き区画整理中止広幅街路公園緑地大部分計画廃止になる。今日桜並木花見名所となっている文京区環状3号線ブールヴァール)やJR高円寺駅前広場、建物疎開跡地渋谷宮下公園などは、石川プラン多少なりともの形で実現した数少ない事例である。とくに石川は「商店街復興こそ東京復興につながる」と考え歌舞伎町麻布十番等は新宿池袋などの副都心部と同等扱い受けて区画整理最優先して行われている。東京復興事業での土地区画整理事業で、土地所有者たちの組合施行行われることになったのは前述歌舞伎町恵比寿など8地区あった。これは都が事業者としてこれらの事業一斉に実施するのは困難だったことから、意欲のあるところに地権者施行させるという方針が採られたためで、これをサポートするために復興院と都は外地から帰国してきた区画整理技術者集めて日本都市建設株式会社設立。この会社委託させるという方策をとったがインフレによる費用高騰助成金少なさなどが重なり会社経営失敗するその後GHQからの指示により、都は大量瓦礫処理を費用をかけずに実施するという難題抱え込む区画整理実施しないことになった都心部では大量ガラ理に苦慮し苦肉の策として都心点在する濠・小河川瓦礫埋め立て、できた土地民間売却する方法がとられた。こうして江戸以来東京水空間大量に失われた外堀通のように公有地として残され箇所極めて少なく上智大学グランドである四谷真田濠のようにオープンスペース的な使用方法もほかにはなく、大部分埋め立て箇所には建物建っている。またGHQから美観上の問題から東京露店全部路上から消すように命令が下る。路上広がる闇市屋台排除目的に、しぶちか上野公園下の石垣利用することになる。駅前闇市の処理は1946年以降何度も行われ取締り対象は「第三国人」と当時新聞などに書きたてられているが、こうしたバラック類は復興事業都市計画街路などの空間として暫定使用黙認されていく。そしてこのような駅前利用形態店舗居住空間後年都市改造都市再開発に際して障害となった。なお、当時東京都都市計画財源はあったが、そうした都市計画税都市計画事業には使用せずにほかに流用していたため、1948年シャウプ勧告による税制改革の際に利用していない特別税として廃止されてしまう。その結果東京都市計画事業は完全に頓挫することになる。そのため1952年財政逼迫した際に、途中まで区画整理事業進んでいた名古屋等はそのまま予算をつけて事業継続したが、ほとんど事業着手されていなかった東京予算カットされ整備着手した事業未整備のまま残された。 石川栄耀は、市民への復興計画PR映画20年後の東京」を作成して啓蒙したりしたほか、復興計画法定都市計画とは別の意図をもった計画要素盛り込もうとし、そのため建築家参加促すために、さまざまな試み企画する前述高山英華相談し、まず手始め1946年2月東京商工会議所タイアップして参加者銀座神田新宿などの中心市街地のを各自選んでアーバンデザインを行う都市計画コンペが行われた。また同年には従来の工、商、住の3地区のほかに特別地区として公館文教消費歓興の各地区を条例指定するねらいで、「文教都市計画」と題した大学中核とする文化教育のための地区文教地区都市計画立案が行われた。文教地区都市計画では、東京にある主要大学周辺地域都市計画立案で、都も少しでも実現できるように努力するという方針の下、東大本郷日大神田駿河台早大早稲田界隈東京芸大上野東京工大大岡山慶大三田立教大池袋それぞれ担当することにしたが、実際東大プラン本郷のほか御茶ノ水芸大担当の上野までをも取り込んでいる。これらには前川国男丹下健三池辺陽東大グループ)、内田祥文(弟内田祥哉と、また日大グループとして)ら当時大学教授若手建築家学生らがプラン作成参加している。東京都都市計画コンペ内田兄弟市川清志らのグループが1位(深川地区新宿地区となった新宿地区計画案では新宿都庁移転していて、都庁中心とした業務地区がすでに先駆けて提案されているほか、復興都市計画から除外され取り残されている地区計画をも提案されている。東大丹下グループ新宿地区計画銀座地区復興計画参加したが、いずれも2位となった文教地区計画コンペでは、東大グループ本郷文教地区計画では当時総長南原繁中心に岸田日出刀高山英華前述丹下池辺などの教授陣浅田孝学生大谷幸夫下河辺淳などが参加し、かなり広範囲にわたる街路網とル・コルビュジエ風の施設ちりばめたものとなるが、実現は到底不可能なものとなって結果は絵だけに終わる。ただし高山英華実際に実現するよう大学不忍池周辺土地購入しよう画策したといわれている。早稲田地区武基雄吉阪隆正のほか石川自身早稲田大学非常勤講師をしていた関係で計画立案参加し、こちらは実際に戸山が原軍用跡地大学拡張用地として獲得したり、大隈キャンパス突き当たり行き止まりになっているバス停留所補助75号線の広幅道路実現するなどの効果があった。この後建築家グループ前述のとおり各地復興都市計画借り出されるが、1947年昭和22年5月には都市計画協会東京都建設局主催者となって東京三越本店で「都市復興博覧会」を開催するテーマは「労働生産厚生」で、博覧会内容借り出され建築家たちが中心になって進めていた復興都市計画市民わかりやすく説明し理解を得るという目的であった

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