東京の戦災復興計画
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「戦災復興都市計画」の記事における「東京の戦災復興計画」の解説
敗戦後、東京の戦災復興計画は復興事業の全体を指揮する責任者となる、後の東京都建設局都市計画課長、建設局長を歴任する石川栄耀の策定による。これは戦前から石川自身が暖めてきたプランを終戦直前に立案着手 し法定都市計画化したものである。東京の戦災復興計画は、広幅員街路と広場、緑地帯、公園、特別地区、緑地地域を決定して環状線内側を区画整理する雄大なプランで、当時の全国各地の復興計画と同様に都市施設をゆったり採った理想主義的なものであった。 計画では河川沿いはすべて帯状緑地や水辺公園を予定しており、高輪、小石川、駒込などの高台や鉄道沿線、100m道路沿いに幅員50から100mの帯状緑地を予定し、旧軍用地、国有地、御料地の多くは公園緑地にしている。全国の大都市復興計画(当初案)ではいずれも幅員100m道路計画があるが、実現した名古屋でも二本に限定しているのに対し、東京では八本も計画され、またすべての幹線街路が幅員40m以上としている。100m道路のうち40m以上は植樹帯として想定されている。これらによって東京の市街地人口を15万人単位で面積1平方キロメートルのブロックに分割することで従来の35区を再編し、それまでの地縁関係からデモクラシーを実現するための市民の結合を図ろうとしている。そのほか東京から工業地帯を衛星都市に分散させることなどを盛り込んでいる。計画の基本方針は明確であったが、東京の戦災復興事業は全国の他都市と比べて事業の着手が遅れる。1948年(昭和23年)にはすべての罹災地に仮設住居が立ち並び、戦災復興ではなく、既成市街地の都市改造のようになっていた。東京の戦災復興計画の具体化には占領軍司令部から吉田茂首相、さらに安井誠一郎東京都知事らは熱心ではなかった。とくに安井知事には、大橋武夫ら戦災復興院幹部が国と都の共同体制で行うことを勧めたが、都独自で執行するとしてこれを断った。安井は都市計画スタッフが復興計画にとりかかる旨を予想していて、その大復興計画を絶対受け入れてはならない、寝る家もなく路頭をさまよう都民の住宅の確保こそが最優先課題、後世、大復興計画を握りつぶした都知事として非難されるだろうが覚悟の上、という有名な言葉を残している。したがい復興事業の実施にあたって、東京都の財政支出はきわめて不十分であった。こうした安井の、都民の苦痛を少なくするという口実により大規模復興に手をつけなかった事柄について大橋武夫は「選挙目当て」と揶揄している。復興事業の立ち上がりの遅れは東京の戦災復興計画の実現には痛手になり、その後のドッジ・ラインによる政府の緊縮財政の方針が追い討ちをかけた。 戦災復興事業の遅れで駅前では闇市が並び、人口も急増。1949年(昭和24年)、ドッジ・ラインの結果、戦災復興事業の見直しが図られる。駅前周辺(それも一部)を除き区画整理は中止、広幅員街路や公園緑地は大部分が計画廃止になる。今日、桜並木が花見の名所となっている文京区の環状3号線(ブールヴァール)やJR高円寺駅前広場、建物疎開跡地の渋谷宮下公園などは、石川のプランが多少なりともの形で実現した数少ない事例である。とくに石川は「商店街の復興こそ東京の復興につながる」と考え、歌舞伎町や麻布十番等は新宿や池袋などの副都心部と同等の扱いを受けて、区画整理が最優先して行われている。東京の復興事業での土地区画整理事業で、土地所有者たちの組合施行で行われることになったのは前述歌舞伎町や恵比寿など8地区あった。これは都が事業者としてこれらの事業を一斉に実施するのは困難だったことから、意欲のあるところには地権者で施行させるという方針が採られたためで、これをサポートするために復興院と都は外地から帰国してきた区画整理技術者を集めて日本都市建設株式会社を設立。この会社に委託させるという方策をとったがインフレによる費用の高騰と助成金の少なさなどが重なり、会社経営は失敗する。 その後GHQからの指示により、都は大量の瓦礫処理を費用をかけずに実施するという難題を抱え込む。区画整理を実施しないことになった都心部では大量のガラ処理に苦慮し、苦肉の策として都心に点在する濠・小河川を瓦礫で埋め立て、できた土地を民間に売却する方法がとられた。こうして江戸以来の東京の水空間が大量に失われた。外堀通のように公有地として残された箇所は極めて少なく、上智大学グランドである四谷の真田濠のようにオープンスペース的な使用方法もほかにはなく、大部分の埋め立て箇所には建物が建っている。またGHQから美観上の問題から東京の露店を全部路上から消すように命令が下る。路上に広がる闇市屋台の排除を目的に、しぶちかや上野公園下の石垣を利用することになる。駅前の闇市の処理は1946年以降何度も行われ、取締りの対象は「第三国人」と当時の新聞などに書きたてられているが、こうしたバラック類は復興事業の都市計画街路などの空間として暫定使用が黙認されていく。そしてこのような駅前利用形態、店舗兼居住空間は後年の都市改造、都市再開発に際して障害となった。なお、当時東京都に都市計画の財源はあったが、そうした都市計画税を都市計画事業には使用せずにほかに流用していたため、1948年のシャウプ勧告による税制改革の際に利用していない特別税として廃止されてしまう。その結果東京の都市計画事業は完全に頓挫することになる。そのため1952年に財政が逼迫した際に、途中まで区画整理事業が進んでいた名古屋等はそのまま予算をつけて事業を継続したが、ほとんど事業着手されていなかった東京は予算がカットされ、整備着手した事業も未整備のまま残された。 石川栄耀は、市民への復興計画のPR映画「20年後の東京」を作成して啓蒙したりしたほか、復興計画に法定の都市計画とは別の意図をもった計画要素を盛り込もうとし、そのため建築家の参加を促すために、さまざまな試みを企画する。前述高山英華と相談し、まず手始めに1946年2月に東京商工会議所とタイアップして参加者が銀座、神田、新宿などの中心市街地のを各自選んでアーバンデザインを行う都市計画コンペが行われた。また同年には従来の工、商、住の3地区のほかに特別地区として公館、文教、消費歓興の各地区を条例指定するねらいで、「文教都市計画」と題した、大学を中核とする文化や教育のための地区(文教地区)都市計画立案が行われた。文教地区の都市計画では、東京にある主要大学の周辺地域の都市計画立案で、都も少しでも実現できるように努力するという方針の下、東大は本郷、日大は神田駿河台、早大は早稲田界隈、東京芸大は上野、東京工大は大岡山、慶大は三田、立教大は池袋をそれぞれ担当することにしたが、実際は東大のプランは本郷のほか御茶ノ水や芸大担当の上野までをも取り込んでいる。これらには前川国男、丹下健三や池辺陽(東大グループ)、内田祥文(弟内田祥哉と、また日大グループとして)ら当時の大学教授、若手建築家や学生らがプランを作成、参加している。東京都の都市計画コンペで内田兄弟と市川清志らのグループが1位(深川地区と新宿地区)となった新宿地区の計画案では新宿に都庁が移転していて、都庁を中心とした業務地区がすでに先駆けて提案されているほか、復興都市計画から除外されて取り残されている地区の計画をも提案されている。東大丹下グループは新宿地区計画と銀座地区復興計画で参加したが、いずれも2位となった。文教地区計画のコンペでは、東大グループの本郷文教地区計画では当時の総長南原繁を中心に岸田日出刀、高山英華や前述丹下と池辺などの教授陣や浅田孝に学生の大谷幸夫や下河辺淳などが参加し、かなり広範囲にわたる街路網とル・コルビュジエ風の施設をちりばめたものとなるが、実現は到底不可能なものとなって結果は絵だけに終わる。ただし高山英華は実際に実現するよう大学と不忍池周辺を土地購入しようと画策したといわれている。早稲田地区は武基雄や吉阪隆正のほか石川自身も早稲田大学で非常勤講師をしていた関係で計画立案に参加し、こちらは実際に戸山が原の軍用跡地が大学拡張用地として獲得したり、大隈キャンパスに突き当たり行き止まりになっているバス停留所、補助75号線の広幅員道路が実現するなどの効果があった。この後建築家グループは前述のとおり各地の復興都市計画に借り出されるが、1947年(昭和22年)5月には都市計画協会と東京都建設局が主催者となって東京三越本店で「都市復興博覧会」を開催する。テーマは「労働、生産、厚生」で、博覧会の内容は借り出された建築家たちが中心になって進めていた復興都市計画を市民にわかりやすく説明し理解を得るという目的であった。
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