復興計画の始動と齟齬
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/01 06:13 UTC 版)
「震災復興再開発事業」の記事における「復興計画の始動と齟齬」の解説
「後藤新平#関東大震災と世界最大規模の帝都復興計画」および「関東大震災#復興」も参照 1923年(大正12年)9月1日に発生した大正関東地震による被害は甚大なものであり、復興計画は政府主導で行われた。第2次山本内閣の内務大臣に就任した後藤新平は、復興事業について、計画決定から各省所管事務、自治体の権限すべてを集中する「帝都復興省」を設立しようとしたが、各省の強い反対に遭い、東京と横浜における都市計画、都市計画事業の執行など復興の事務を掌る帝都復興院を設立して、いわゆる後藤系官僚を結集させた。その幹部は、総裁後藤新平、副総裁に北海道庁長官の宮尾舜治(計画局・土地整理局・建築局担当)と東京市政調査会専務理事松木幹一郎(土木局・物資供給局・経理局担当)、技監に大阪市の港湾計画や都市計画に従事した直木倫太郎、理事・計画局長には、官職を離れて京都にいた元東京市助役池田宏、理事・土地整理局長に宮尾舜治(後に北海道庁土木部長の稲葉健之助)、理事・建築局長に東京帝国大学教授との兼任で耐震構造研究の佐野利器、理事・土木局長に直木倫太郎(途中辞職、直木の後任にに鉄道技師・陸軍工兵少尉の太田圓三)、理事・物資供給局長に松木幹一郎、経理局長心得に鉄道省経理局会計課長十河信二という陣容で、2人の勅任技師に内務省都市計画課の山田博愛と医学博士岸一太を起用した。しかし後藤は、2人の副総裁人事に際して、配下の後藤系官僚4人に交渉しており、こうした「人事上の不謹慎」が、後の復興計画に支障を来すこととなる。 後藤は一人で東京復興の基本方針 遷都すべからず 復興費は30億円を要すべし 欧米最新の都市計画を採用して、我国に相応しい新都を造営せざるべからず 新都市計画実施の為めには、地主に対し断固たる態度を取らざるべからず を練り上げる。だが事業規模は当時の経済状況をかんがみて縮小され、当初の焦土買い上げという後藤の「大風呂敷」は実現せず、農地整序につかっていた区画整理が展開されることとなった。しかし土地区画整理については、担当の宮尾副総裁が拙速主義を取って反対だったのに対して、松木副総裁とその推薦で復興院に入った者たちは区画整理実行論者であった。この対立において、都市計画官僚の第一人者である池田計画局長が宮尾副総裁に、佐野建築局長が松木副総裁に与すると、後藤総裁の政治力では両者の対立に収拾がつかなくなった。しかも区画整理については後藤自身が研究不足でよく理解しておらず、閣僚には井上準之助大蔵大臣が説明することもあるほどであった。さらに復興計画審議のために設置された3つの審議機関のうち帝都復興参与会と帝都復興協議会は無事通過するが、帝都復興審議会では大反対され、特別委員会での大幅縮小で決定、5億円強になり議会提出の運びとなった。そして議会では、普通選挙導入問題で後藤内務大臣と対立する最大野党の立憲政友会が復興予算でも反対に回り、予算の大幅削減と復興院廃止を要求した。山本内閣では、犬養毅逓信大臣と平沼騏一郎司法大臣が解散総選挙を主張、田中義一陸軍大臣と財部彪海軍大臣が解散ないし総辞職を主張したのに対し、所管の後藤内務大臣が政友会への屈服を選択したため、政友会案を受け入れて復興計画は確定された。しかも後藤は予算成立後の解散を提言して山本権兵衛総理大臣に却下された。さらに火災保険貸付法案審議未了問題で田健治郎農商務大臣が辞任(12月24日)した矢先に虎ノ門事件(12月27日)が起きて、山本内閣はこれを契機に総辞職し、この政争の過程で多くの人の支持を失っていた後藤はその後、現実政治家として復帰することはなかった。 後藤新平の強い影響下に設立された復興院は廃止され、翌1924年2月25日、内務省の外局として復興局が設置されて、復興院技監だった後藤系の直木倫太郎が長官となった。しかし復興局は、内務省、鉄道省、大蔵省の3省の寄り合い所帯で「伏魔殿」と言われ、疑獄事件が相次いだ。特に1925年12月からは、前復興局整地部長稲葉健之助、鉄道省経理局長十河信二(前復興局経理部長)ら多数が逮捕・起訴される復興局疑獄事件が摘発され、土木部長太田圓三が自殺した。検事局による捜査の手は、直木前長官(1925年9月16日に憲政会系内務官僚の清野長太郎と交代)や政友本党幹事長小橋一太(清浦内閣内閣書記官長)にまで及んだが、復興局側の担当者だった太田が自殺したために捜査が進まず、また政治決着が図られた形跡もあり、捜査は1926年4月で立ち消えとなった。裁判は1927年6月の一審判決で稲葉、十河とも収賄で有罪、1929年4月の控訴審判決で稲葉有罪、十河無罪となった(十河も金銭授受の事実は認めた)。1930年3月からは、昭和天皇の東京市内視察を皮切りとした帝都復興祭が迫っており、復興の問題に対しては「臭いものに蓋」のムードが立ち込め、復興に関するできごとが天皇の名で「偉業」と化していった中、後藤新平や復興院・復興局の不祥事は語りにくい事件となって行き、戦後刊行された東京百年史編集委員会編『東京百年史 第四巻』(東京都、1972年)でもまともに扱われなかった。さらにマスコミも事件の隠蔽工作に手を貸していた(稲葉は復興局機密費を使って新聞記者に金銭を送っていた)。 こうしたスキャンダルにまみれた中、後藤新平の当初の構想までは実現しなかったが、現在の内堀通りや靖国通り、昭和通りなど都心・下町のすべての街路はこの復興事業によって整備されたもので、この東京の骨格は現在に至るまで変化していない。また震災による焼失区域1100万坪の全域に対する土地区画整理事業を断行する。区画整理は最終的に全体を66地区に分け、各整理委員会で侃々諤々の議論を行いながら事業が進められた。この結果密集市街地の裏宅地や畦道のまま市街化した地域は一掃され、いずれも幅4m以上の生活道路網が形成され、同時に上下水道とガス等の基盤も整備された。
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