【神式】式年祭・例年祭 (忌明け祭後の行事)
式年祭(仏教でいう回忌法要)
百日祭・一年祭・三年祭・五年祭・十年祭・二十年祭・三十年祭・四十年祭・五十年祭・百年祭がありますが、三十年祭で切り上げるのが一般的のようです。
盆祭(例年祭)
仏教の盆供養と同じ日に行われ、神道では盆祭又は中元祭といって、お墓参りをしたり自宅に氏神の神官を招いて執り行いますが、故人が逝去後初めて迎える盆祭を新盆祭と言います。
ひとくちMEMO
- 宗教・宗派にかかわらず通夜・葬儀の儀式においては、町内会役員・近隣者・会社や職場や業界関係者・寺院や教会などの方々には、世話役・進行係・会計係・受付係・会場案内係・台所係・駐車及び交通整理係・霊柩車やハイヤー及びタクシーやマイクロバスの運転手・火葬場係員などの他、寺院のお手伝いさん・教会の聖歌隊やオルガニストなどとしてお世話になりますが、そうした方々への謝礼の献辞(表書き)は「御礼」とします。
(注:係員が公的職員の場合は謝礼受取りを禁じています。) - お祝い返しや香奠返しは通常1/2〜1/3返しとされていますが、基本的には「上に薄く下に厚く」返すのが一般的とされています。また、商品で返す場合は1/3返し、商品券で返す場合は1/2返し、両方の場合は各々1/3返しが最近の傾向です。
- 蓮の絵が入ったものは佛式用に付き、藍銀水引ののし紙は蓮の絵が入っていないものを用いる。
- 十年祭以降、二十年祭・三十年祭・四十年祭・五十年祭とあるが、十年祭以降は極内輪で、三十年祭で切り上げるのが一般的。
ご贈答のマナー
贈答様式 | 贈り元 | 献辞(表書き) | 慶弔用品 |
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百日祭(百日目)時の神社・神官への謝礼 | 当家 | 御祭祀料 御祈祷料 御神饌料 御礼 | 【金封】 双銀結切り/双銀あわび結び 黄白結切り/黄白あわび結び 水引熨斗なし 【のし袋】 白無地/黄白結切り 黄白あわび結び |
新盆祭(例年祭)時の神社・神官への謝礼 | 当家 | ||
式年祭時の神社・神官への謝礼 一年祭(満一年目) 二年祭(満二年目) 五年祭(満五年目) 十年祭(満十年目) | 当家 | ||
式年祭時の神官への謝礼に付ける | 御膳料 | 【のし袋】白無地 | |
御車料 | |||
式年祭時にお供え金を贈る | 身内 身内以外 | 御霊前 玉串料 御榊料 | 【金封】 双銀結切り/双銀あわび結び 黄白結切り/黄白あわび結び 水引熨斗なし 【のし袋】 白無地/黄白(銀)結切り 黄白(銀)あわび結び |
式年祭時にお供え品を贈る | 身内 身内以外 | 御供物 御供 | 【のし紙】 藍銀結切り(蓮なし) 藍銀あわび結び(蓮なし) 黄白結切り/黄白あわび結び |
式年祭時の香奠返し※ | 当家 | 偲び草 志 茶の子 |
※忌明け法要の日と香奠返し(忌明け法要の引き出物)の表書きと贈る時点の違い
使用例(のし紙/金封/のし袋の様式)
のし紙/金封/のし袋の様式 | 使い方 |
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式年祭
式年祭
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/06 07:24 UTC 版)
式年祭として、20年に1度本殿一棟を造り替える大遷宮祭と、その間2回の修理を行う小遷宮祭が行われる。祭は、穂高神社に伝わる『三宮穂高社御造宮定日記』(安曇野市指定文化財)に従い、文明15年(1483年)以前からの古い形式で、安曇野市指定無形民俗文化財に指定されている。 神事は遷座の100日前の四至榊立神事から始まる。役目を終えた本殿は各社に払い下げられるか取り壊すかされ、移築されて現存のものは十数棟ある。
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式年祭
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/16 16:38 UTC 版)
式年大祭として、御船祭(みふねさい)が12年に1度の午年に行われる。御船祭は応神天皇の時代に祭典化されたと伝えられ、神宮における最大の祭典とされている。祭は戦国時代に中絶したが、明治3年(1870年)に再興された。 祭事の流れは次の通り。 9月1日午前、天皇から遣わされる勅使の参向を仰いで例大祭を執行。 2日早朝、鹿島神宮を進発した神輿は陸路を北浦湖岸の大船津に到着。大船津で神輿が龍頭の飾り等を施した御座船(ござぶね)に載せられ、多くの供奉船を従えて水上渡御し、香取市加藤洲に至る。そこで香取神宮の御迎祭を受けた後、再び同じ水路を還幸して行宮に戻る。 3日午後、行宮から本殿へと還幸。
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式年祭
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/04 09:30 UTC 版)
一定の時を期して定例の様式で営まれる祭祀。鎭座日、祭神の年祭など神社にとって特に由緒の深い日に基づくものが多い。
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式年祭
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/17 03:29 UTC 版)
御神衣祭(かんみそまつり)特殊神事。33年目ごとの例祭の日に行なわれる。祭神の神衣を新調して納める式年大祭である。 神幸大祭(御神幸祭)3年目ごとに行なわれる。
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式年祭
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/24 14:24 UTC 版)
式年祭として、御柱祭(おんばしらさい)が6年に一度、寅年・申年の4月中旬に催行される。この祭は、諏訪神が諏訪に向かう途中で当地に留まった際、生島・足島両神に対して御柱を奉ったのが由来という。
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式年祭
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/09 03:56 UTC 版)
御神期祭寛政4年(1792年)から50年に一度の祭礼として行われる。1992年(平成4年)には千六百年御神期大祭として、猿田彦、獅子舞、風流(ふりゅう)を先導に、神輿行列が久留米市街地まで練り歩く神幸祭が執り行われた。
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式年祭
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/08 09:13 UTC 版)
式年大祭として、式年神幸祭(しきねんじんこうさい)が12年に1度の午年に行われる。境内前までの神幸祭は毎年4月15日に行われているが、式年大祭では4月15日・16日の両日に大規模に行われる。古くは「軍神祭」「軍陣祭」とも称された。 この祭は、経津主神による東国平定の様子を模したものといわれる。元は「式年遷宮大祭」の名で、20年に1度の式年造営に伴って行われたという。しかしながら式年造営と同じく応仁の乱の頃に衰え、永禄11年(1568年)を最後として明治まで絶えていた。その後、明治8年(1875年)に復興され毎年執行されていたが、明治15年(1882年)以降は午年毎の執行と定められ、現在に至っている。 祭事の流れは次の通り。 15日:神輿を中心とした神幸列が神宮を発し津宮に到着。利根川岸で神輿は御座船に移され、船上祭を催行。次いで鹿島神宮による御迎祭。利根川を遡って佐原河口に上陸したのち、御旅所で一宿。 16日:神幸列が市内を巡り、神宮へ陸路を還御。
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式年祭
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/22 09:15 UTC 版)
式年御柱祭 (6年に1度、卯年と酉年)山出式 (4月中の酉の日) 曳廻 (例祭当日) 6年に1度、卯年と酉年の例大祭に合わせて行われる。4本の御柱を波田の旧松本藩が所有していた「御林」から伐り出して、国道158号沿道を曳き出す。御柱立ては一の柱が中村・三ノ宮村、二の柱が島立町村・永田村、三の柱が大庭村・小柴村、四の柱が荒井村・堀米村と、いずれも中世の島立郷の郷村が担当した。松本盆地の他の御柱祭と異なり、諏訪大社の形式で行われ、史料で確認できる最も古い例は正徳3年(1713年)である。昔から「人を見るなら一之宮(諏訪大社)、綺羅を見るなら二之宮(小野神社)、衣装見るなら三之宮」と言われ、各柱毎に衣装を凝らしてある。松本市から無形民俗文化財に指定されている。
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式年祭
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 00:08 UTC 版)
臨時奉幣祭(勅使祭) 10年に1度行われる(前回は平成27年10月6日)。 奈良時代の天平年間から平安時代まで、天皇の代替わりなど重要時には宇佐使(うさづかい)という勅使が朝廷から派遣されていた。宇佐八幡宮神託事件にちなみ、宇佐使は和気清麻呂の子孫である和気氏が務めるのが通例であった(ただし菅原道真が左遷された際などには藤原氏から人選されている)。なお宇佐使は建武期に復活したが、再び停止された。 延享元年(1744年)に復活し、大正時代から皇室から侍従職あるいは掌典職などの勅使が10年おきに派遣される勅使祭となって現在も続いている。
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「式年祭」の例文・使い方・用例・文例
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