祭事の流れ
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お注連立式、奉告祭 7月1日 早朝、祭りの間神域を表す齋竹を立て注連縄を張る儀式「御注連立式」で1ヶ月に及ぶ例大祭が始まる。 夕刻に今年の芸題を奉告、小屋台に大書し、お祓いを受けた後、6町内に触れ回る「奉告祭」を行う。夕闇に提灯の明かりに照らされて浮かび上がる芸題と、それを引くお揃い姿の若衆の風情は格別。 このしきたりに習い、現在でも観光協会では7月1日以降まで積極的なPRは行なわない。 例祭 本来の神事の中心となるのが例祭で八雲神社に天下泰平、五穀豊穣を祈願する。 本来の神事であるため、基本的に関係者のみで執り行われる。八雲講、自治会に市長、議会議長、県会議員などの行政関係者も参列。世話人衆は当番町のみ参殿し、他町は境内で参拝する。 笠揃 第4週木曜日 本番を翌日に控え、本年の当番町と芸題のお披露目をする。 夕刻から、金棒引きを露払いに当番町内を巡行し、舞台を開き、当番町の役付きを紹介するとともに、山、関係者、一般客をお祓いし、乾杯ののち、手締めし開演となる。町によっては舞台開きとお祓いが先となる場合もある。 まず縁起物の三番叟(子宝三番叟)を舞ったのち、奉告した主芸題を舞う。歌舞伎でいうところの顔見世興行に当たる。笠揃は若衆が笠を背負い、整列することによる。 神幸祭(出御)天王建 金曜日 当番町が担当。 早朝から八雲神社で神事を行い、本殿と神輿の間を幕で繋いで神様に神輿に御遷りいただき、当番町を巡行したのち、旧烏山町市街中心部の仲町交差点に設けられた御仮殿(おかりや)に納められる。当番町はすぐ後に天王建を控えているため、舞台装置を取りに走って戻る。 続いて芸題を御仮殿に居る神様に対し、奉納する。これを「天王建」と呼ぶ。この公演のみ「神事」で、こののちの公演は「余興」となる。 奉納余興(訪問) 奉納余興は各町、および自町内の各所に遍く山の恵みを分け与えるために各所に山をあげ、そこで余興を奉納することを言う。特に他町で余興を奉納することを訪問と呼び、会所前で行われる。他町を訪問する場合、金棒引きを露払いに世話人衆が先導し、町境にさしかかると、訪問先の町の世話人衆と若衆が整列して出迎える。訪問する側は、相手の庭先(町内)を借りる旨口上し、受ける側は案内する旨口上し、訪問先町内での移動は、その町の世話人衆が案内する。場所によっては、当番町を送る町と受ける町が向き合い、連続して行うところもある。 渡御祭 土曜日 受受当番町(翌々年の当番町)が担当。 早朝御仮殿で神事を行い、6町に屋敷町を含めた7町を巡行。先頭は触れ太鼓、続いて赤天狗と青天狗…と続く。渡御では奉納余興と同様、他町を訪問する場合、町境にさしかかると、訪問先の町の世話人衆が整列して出迎える。 還幸祭(還御) 日曜日 受当番町(翌年の当番町)が担当。 3日目の夕刻に御仮殿で神事を行い、まず八雲神社の鳥居まで、神輿を先頭に子ども神輿、神主、八雲講、屋台の順で送る(天王送り)。鳥居の前で、お飾りを外すと神輿は「あばれ神輿」に。7町を巡り、一度受当番町の会所に戻り、夜になると還御を再開。本来、神輿は八雲神社に還す(あがる)ことになるが、神輿が鳥居をくぐれば祭りの終わりを意味するため、門前まで来ると、あがるか戻って担ぎ続けるかを巡り世話人衆と神輿方で駆け引きがある。門前で神輿がもみ合ったのち踵を返し(回し)、再び自町、もしくは御仮殿に戻り、再度門前を目指すことを複数回繰り返す。何回繰り返すか、いかにもみ合うかが若衆の熱意を量る物差しとされる。近年は、交通規制の調整が厳しく、午前0時前後で終了することが多いが、警察との調整も踏まえた「見せ方」が世話人の腕の見せ所でもある。 鳥居をくぐると太鼓が打ち鳴らされ、本殿に。出御とは逆に神輿と本殿の間を幕で繋いで、神様に本殿に御遷りいただき、神事を終了すると、当番町と受当番町の間で申し送りが行われる(現在は笠抜と時間が重複するため、後日行われることが多い)。 ブンヌキ ブンヌキは、囃子の調子を競うもので、他町の囃子を「ぶんぬく」ことが由来とされる。基本的に市中で屋台が出会えば必ず行われる。各町若衆は、自町の囃子手を鼓舞するため、大声を出し囃す。路地の狭さと、新囃子の早いビートと相まって独特のトランス状態になる。 特に還御祭で天王送りの後、鳥居前に残った屋台が互いを向き合わせて行うブンヌキは、受当番町以外の全屋台が集結するため、市民にとっても盛り上がりのピークとなる。この30分間は異様な興奮を醸し出すという。 他にも、記念企画で屋台パレードなどを行うと、御仮殿前などで全屋台でのブンヌキが行われることがある。 笠抜 3日目の最後に行われる最後の公演。演目は「関の扉(下)」「老松」(千秋楽)。 昭和後期まで、還御が終了してから行う(笠抜が最後)ことになっていたが、現在は慣例で10時になると笠抜を始めてよいとされている。関の扉と老松(千秋楽)が演じられる。 笠抜は正装で背負う笠を取ることに由来する。 名越(夏越祓) 7月31日の午後6時から、夏虫の禍、頭痛、暑気あたりに効果があるとされる、茅の輪くぐりをして1ヶ月の例大祭が終了する。
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祭事の流れ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/20 18:51 UTC 版)
18時頃より、「神事にまいらっしゃれ」という神事触れの合図により集落の各戸に積まれたエジと呼ばれる篝火や、松明に点火。 初めは主に子どもが「とっくり」などと呼ばれる小さな松明を、その後は大人が比較的大きな松明を持って「サイレイヤ、サイリョウ」(祭礼や、祭礼の意)のかけ声と共に集落内を練り歩き、「仲間」と呼ばれる地域集団それぞれの「宿」(その年の当番)の家へ向かう。 20時頃より、各仲間からの大松明が集落内を練り歩いた後鞍馬寺山門前に向かう。各松明は山門前の石段に立てた状態でにひしめき合い、ある程度燃え尽きるとその後石段下の一ヶ所に焼き捨てられ、男たちは神輿の所に移動する。 石段奥の注連縄が切られて、八所大明神、由岐大明神の順序で神社から神輿が下る。参道が急なため、スピードが出過ぎないように「綱方」と呼ばれる女性達が綱を牽く(この綱を牽くと安産になると伝えられるので、若い女性が多く参加している)。 神輿が降りる際、ふんどし姿の男性が担ぎ棒にぶら下がるが、これを『チョッペン』という。これは元服の儀式であり、鞍馬の男性にとっては一生に一度となる成人の儀式である。 神輿が集落内を練り歩き、御旅所に安置される。 神楽松明と呼ばれる大松明が奉納され、神楽松明が境内をまわる。神幸祭は終了し、氏子は帰宅する。(24時頃終了)。 翌朝、神輿が御旅所から神社に戻る「還幸祭」が行われ、祭事のすべてが終了する。
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祭事の流れ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/12 14:33 UTC 版)
毎年4月の第2日曜日(上賀茂のみ、葵祭と同じ5月15日)に行われる。花傘を先頭に、風流(ふりゅう)の装いを凝らして、鉦(かね)や太鼓をたたき、踊りながら氏子区域をくまなく練り歩き,疫病を納める。最後に神社に参拝して(それぞれの保存会により相違する。)、無病息災を祈願する。囃(はや)したり踊ったりするのは、豊かな稲の実りを祈るとともに、花の精にあおられていたずらをして回る疫神を、踊りの中に巻き込んで鎮めるためといわれている。 今宮やすらい,川上やすらい,上賀茂やすらい(今宮遥拝)は,今宮神社の疫神(やくじん)を参拝する。 玄武やすらいは,今宮神社の疫神(やくじん)を参拝は行わない。祭の行列は、「練り衆」と呼ばれる。旗、榊台(さかきだい)、唐櫃(からびつ)、鉾、御幣(ごへい)などの後に、花傘を先頭に20名(各保存会により人数は相違する。)ほどの踊りの一団が続く。この一団には、世話役のほかに、間鼓(子鬼)、大鬼(鉦、太鼓)、囃子方(笛)がおり、赤毛・黒毛の鬼たちが、笛や太鼓のお囃子(はやし)に合わせて、長い髪を振り乱しながら、「やすらい花や」の掛け声とともに踊り、練り歩く。 頭につける飾りや跳ね回る踊り方はユダヤ人の踊りに類似し「やすらい」は「イスライ(ユダヤ)」起源とも。 小学3年生までは「子鬼」、もう少し上の学年になると「囃子方」を担当する。中学、高校生になると「大鬼」になって、鉦や太鼓をたたきながら踊る。保存会では、こうした子供たちの先輩が,踊りや囃子の手ほどきを行い、代々伝承している。 この行列は、朝から夕方まで練り歩く途中で、橙色の布を軒先に垂らした家の前で止まって踊りを披露する(玄武神社のやすらい祭りの巡航状況)。祭礼の巡航時間や囃子言葉は,各保存会によりそれぞれ違う。このときには、皆が競って花傘に入って、悪霊退散と無病息災を祈願する。町内ごとに休憩所(床几)が設けられており、歩き疲れ、踊り疲れた一団の労がねぎらわれる。 神社の境内では、大鬼が大きな輪になってやすらい踊りを奉納する。桜の花を背景に神前へ向かい、激しく飛び跳ねるように、そしてまた緩やかに、「やすらい花や」の声に合わせて踊る。
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