廃止された連絡線
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/14 22:24 UTC 版)
※両方の路線が接続地点において現存するものに限定して記載する。事業者名は撤去時点の名称。 北総開発鉄道(現在の北総鉄道)と新京成電鉄 北総・公団線(現在の北総鉄道北総線)新鎌ヶ谷駅 - 新京成電鉄新京成線北初富駅間北総線の都心側が開通していない状態で、新京成線につないで千葉ニュータウンからのアクセスを暫定的に確保するため。1991年に北総線が京成高砂駅まで開通し、またその翌年には新京成線にも新鎌ヶ谷駅が設置され、同線との乗り換えも可能となったため廃止。高架橋は現在撤去されている。 小田急電鉄と京王帝都電鉄(現在の京王電鉄) 小田急小田原線世田谷代田駅 - 京王井の頭線新代田駅間(代田連絡線)戦時中、1945年5月の空襲で井の頭線永福町車庫が被災した後、他路線からの借入車や新車の搬入、被災車両の搬出、借入車の返却を行うため、強制収用した土地に建設された。建設当時は、両線がいずれも東京急行電鉄(いわゆる大東急。1948年6月に小田急電鉄・京王帝都電鉄が分離発足)だったため実現した。京王帝都電鉄(現在の京王電鉄)が承継した後、地主からの返還請求により1952年に使用を停止し、翌年撤去された。その跡地は世田谷代田駅にわずかに残っていたが、小田急線の複々線化事業の進捗により完全に消滅した。 日本国有鉄道と京浜急行電鉄 東海道本線蒲田駅 - 京急穴守線(現在の空港線)京急蒲田駅間(蒲蒲連絡線)太平洋戦争後の1945年9月、羽田飛行場を接収した米軍への物資輸送用として建設。建設時点では穴守線は東京急行電鉄(いわゆる大東急)に所属していた(1948年6月に京浜急行電鉄として再分離)。京急穴守線は上り線を1067mmに改軌の上、国鉄の運行による貨物輸送が1952年11月まで実施されていた。現在は線路は撤去され、跡地は道路等に転用されている。なお2014年現在、大田区が東急多摩川線矢口渡駅 - 京急空港線大鳥居駅間に新線を敷設する蒲蒲線(仮称)の計画を検討中であるが、上述の蒲蒲連絡線とは無関係である。 日本国有鉄道と小田急電鉄 南武線宿河原駅 - 小田急小田原線向ヶ丘遊園駅(当時は稲田登戸駅)間(登戸連絡線、南武連絡線)南武線が国有化される前の1937年に設置された。当時は連絡線を通じた貨物輸送(砂利運搬)や、電車の貸し借りが行われていた。また、戦争中には東海道本線が戦争で被災した場合の迂回路に想定されたこともある。主な輸送対象だった河川の砂利採取が禁止されたことで1967年3月に廃止。跡地も区画整理されほぼ現存しない。ただし、南武線宿河原駅 - 登戸駅間の線路際西側に小田急電鉄の用地が僅かながら現存する。 日本国有鉄道と東京急行電鉄(現在の東急電鉄) 菊名駅構内(横浜線と東急東横線)甲種輸送などを行うため、東横線渋谷方面と横浜線八王子方面の線路の間に連絡線(いわゆる授受線)が存在した。後にその役割を長津田駅に譲っている。1966年9月に撤去され、痕跡は残っていない。 JR西日本と富山地方鉄道 富山駅・電鉄富山駅構内JR西日本の軌道検測車(キヤ141系)を入線させるため。過去には、国鉄時代(1970年 - 1983年)には大阪駅発の急行電車「立山」や名古屋(名鉄名古屋駅)方面からの特急「北アルプス」などが、JRとなってからも(1990年 - 1999年)大阪方面から特急「スーパー雷鳥」や「サンダーバード」などが、国鉄(JR)富山駅から地鉄線に乗り入れる定期運用もあった。富山駅の高架化工事に伴い撤去されている。 日本国有鉄道 東海道本線熱田駅 - 中央本線千種駅間(東海道本線貨物支線)熱田駅の東にあった兵器工場(名古屋陸軍造兵廠高蔵・熱田製造所)や車両工場(日本車輌製造)で製造された物資の輸送の便を図るため、1918年(大正7年)9月10日に開設された連絡線である。当時中央本線の、名古屋市内の駅は名古屋駅と千種駅しか存在せず、東海道本線・熱田駅方面と中央本線間の物資輸送は、一旦名古屋駅まで輸送してスイッチバックしなければならず、不便を強いられた。本連絡線はその不便を解消するために設けられたものである。東海道線の分岐点は熱田駅の北0.5km付近(.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯35度8分9.5秒 東経136度54分29.3秒 / 北緯35.135972度 東経136.908139度 / 35.135972; 136.908139 (東海道本線貨物支線分岐点))、中央本線の合流地点は古渡信号場(北緯35度8分40.6秒 東経136度54分24.8秒 / 北緯35.144611度 東経136.906889度 / 35.144611; 136.906889 (東海道本線貨物支線合流点))であった。本連絡線は1930年(昭和5年)4月1日に廃止された。線路跡は道路として整備され戦後まで残っていたが、その後は跡地の宅地化が進み、痕跡はほとんど残っていない。 名古屋鉄道 名鉄三河線三河知立駅 - 名鉄名古屋本線知立信号所間(知立連絡線)愛知電気鉄道(名古屋本線東部の前身会社)が三河鉄道(三河線の前身会社)との貨物相互直通運用のため1928年に建設、名古屋本線東部および三河線の貨物営業が廃止された1984年まで貨物線として使用された。このうち1950年から1959年までの間は旅客運用も実施しており、1959年に現・知立駅および現在の配線が完成するまでは知立連絡線を経由して名古屋本線と三河線との直通運転を行っていた。廃止後、路盤は段階的に整理され、現在では唯一あった踏切のレールのみ、残っている。 名古屋鉄道と近畿日本鉄道 名鉄名古屋本線新名古屋駅(現在の名鉄名古屋駅) - 近鉄名古屋線近畿日本名古屋駅(現在の近鉄名古屋駅)間近鉄名古屋線が狭軌であった時代、名古屋駅で名鉄と近鉄の線路がつながっており、定期旅客列車の直通はなかったものの、1950年から1952年まで団体列車の乗り入れが行われていた。新名古屋駅の改造・配線変更に伴い1954年に廃止。 名古屋鉄道とJR東海 名鉄犬山線新鵜沼駅 - 高山本線鵜沼駅間(鵜沼連絡線)名鉄と高山本線方面との貨車受け渡しのために建設されたもので、戦前から存在した。当初設置されたものは新鵜沼駅から右カーブし、国鉄鵜沼駅東側でスイッチバックして岐阜方に向かって鵜沼駅構内に進入する線路であった。1932年には(高山本線内は蒸気機関車に牽引させる形で)この線路を経由した直通旅客列車が運行されている。高山駅方面に向かうために、列車は国社連絡線の突き当たりと鵜沼駅で2回方向を転じていた。戦後は「北アルプス」(当初は準急「たかやま」)の運行にも使用された。1972年には、高山本線高山方からこの連絡線に接続する短絡線(渡り線)が設置され、「北アルプス」の方向転換は解消された。しかし、同列車が2001年に廃止されたため、分岐器が撤去されて線路が切断された。線路自体はJR鵜沼駅脇に名鉄の電留線があったため、名鉄新鵜沼駅の引き上げ線として残っていたが、2008年までに使用されなくなり、線路は2011年初頭までに完全に撤去され、跡地は道路に転用された。 京阪電気鉄道と近畿日本鉄道 京阪本線丹波橋駅 - 近鉄京都線桃山御陵前駅(駅南側)、伏見駅(駅北側)旧奈良電時代の1945年より、近鉄京都線が堀内駅を廃止した上で丹波橋駅の2番線と4番線に乗り入れる形で相互直通運転を開始。後に近鉄京都線の架線電圧昇圧が決定したことなどを受けて、1968年に近鉄京都線は旧堀内駅跡に近鉄丹波橋駅を設けて独立、同時に相互直通運転も廃止された。ただし両線を結ぶ連絡線は翌1969年まで存続した。 阪神電気鉄道と京阪神急行電鉄(現在の阪急電鉄) 今津駅構内(阪神本線と阪急今津線)戦時中の川西航空機関連の軍需輸送のため。戦後、阪急の車両が暴走して阪神電鉄線に侵入する事故(詳細)があり線路が分断、その後阪急側の駅移転・両者の高架化があり、痕跡は残っていない。かんべむさしの小説『決戦・日本シリーズ』にはこの連絡線がキーアイテムとして登場する。 JR西日本 阪和連絡線(関西本線八尾駅 - 阪和線杉本町駅間)正式には関西本線の支線であった。和歌山方面への貨物列車運転のために1952年開通した。1965年にはこの区間を経由する特急「あすか」が運転を開始し、それに合わせて旅客営業キロも設定された。「あすか」は利用客の不振から1967年に廃止されたが、営業キロの設定はその後も残り、国鉄民営化後の1988年以降臨時の旅客列車が複数設定されていた。民営化に際してはJR貨物も第2種鉄道事業の免許を保有した。その後2003年にJR貨物の免許は廃止となり、2009年に路線自体も廃止となった。
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