小諸家臣木俣氏が、牛久保以来の家であることを、否定できる根拠と理由
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「小諸藩牧野氏の家臣団」の記事における「小諸家臣木俣氏が、牛久保以来の家であることを、否定できる根拠と理由」の解説
小諸家臣木俣氏が、「牛久保(城)以来の家柄」で、かつ「木俣守勝家から分かれた家」であるという2つの条件は、同時に成立しないこと。及び小諸家臣木俣氏は、牛久保(城)以来、牧野家と共にあった家柄であるとは、言い難いという根拠の主なものは、次の通りである。 下記に掲載した膨大な出典、参考文献の中に、木俣氏を、牛久保城から、牧野家と共にあったとする文書が一切、存在しない。また小諸藩が、藩士木俣氏を、牛久保城以来の家として、処遇したとする史料・文書も、同様の範囲に、皆無である。 藩主牧野氏の先祖が、城主であった三河国牛久保城古図には、木俣姓の屋敷は存在しない(光輝庵所蔵)。このころ藩主牧野氏の先祖は、6,000石程度の国人領主に過ぎず40余家の屋敷が、同古図に掲載されている。もっとも細かく検討すれば、小諸家臣木俣氏の先祖が、牛久保城下に、屋敷を与えられない長屋住まいの足軽・雑兵・小者であった場合や、牛久保城古図が成立後から、関東(牧野氏の場合は、関東地方の上野国大胡城)に引っ越した1590年夏ごろまでの期間に、牛久保城主に採用されていたとするならば、牛久保城古図に木俣姓の屋敷がないからといって、直ちに牛久保以来の家であることを否定されない。したがって、その他の文献や、当時の状況とを総合的に判断しなければならない。 牛窪記・牛窪密談記・宮島伝記といった牛久保在城期の藩主牧野氏、真木氏、稲垣氏等の基本史料ともいうべきこれら文献の中には、木俣姓が登場しない。その一方で、これら文献には、藩主牧野氏の古参士分の姓が、いくつも登場している。牛久保年寄衆・牛久保六騎と地侍十七人衆にも、木俣姓は存在しない。 牛久保城下だけでなく、牛久保城と、同じ郡内である宝飯郡全体にまで、対象範囲を広げても、中世(戦国時代を含む)・近世に木俣姓の屋敷・墳墓などを発見できない。これに対して、牧野・真木・山本・稲垣といった姓は、いくつも拾える(出典は、二葉松)。 諸士由緒記(蒼柴神社所蔵文書)や、長岡藩・小諸藩分限帳には、木俣氏に関する記述が登場する一方、これらの文書には、木俣氏の大胡在封期より前の記述は、まったく書かれていない。これに対して、古参士分は、大胡以前の記述があることが珍しくない。 小諸家臣である木俣氏先祖の史料学的初見は、大胡城家臣・木俣惣右衛門某である(彼が木俣守勝の異母弟か、その子であると断定できる証拠はないが、推論の根拠となる文献・史料は存在)。 小諸家臣である木俣氏については、古い年代から小諸藩主に随従してきた家に、修飾される語句・美称である牛久保以来の出自、牛久保(城)以来の家柄、牛久保(城)以来の家臣(あるいは家来)、古包、古包の家来などといった記述を含む文書を、各種小諸藩文書・長岡藩文書などに、見て取れない。譜代の意味については、長岡藩と、小諸藩では、若干異なって使われていた部分があるが、これについては、他に説明がある。 小諸家臣木俣氏の子孫が平成26年、小諸市乙に建立した木俣家碑文にあるように、「三河譜代近江国彦根藩筆頭家老・木俣守勝家から分かれ」と特に強調するならば、天正18年(1590年)、藩主牧野氏の先祖は、すでに牛久保の故地を離れて、上野国大胡にあるため、1590年夏以降の分家や、分かれであるとするならば、三河国牛久保(城)以来の家柄ということは、あり得ないことになる。三河国牛久保城以来の木俣氏の分かれの家があるとすれば、1590年当時、実子を持たない木俣守勝が、当時の慣習法や常識に反して、1590年夏より以前に「分かれの家」を建てることが、本当にあり得たのか、あるいは家族であった男子(弟・甥など)に出奔・家出をされて、牛久保に流れた痕跡があるかが、問題となる。 武家社会の掟として、一定以上の士分の家が、跡取りの男子がないうちに、いくら人間関係が微妙であっても、弟や、兄弟の子(甥)などの近縁者をすべて、養子に出したり、他藩・他家に転籍させたり、分家を立てるということは、常識的にはあり得ない(学術的には、御人減少は、咎めを受け、末期養子は、江戸時代より前でも好ましいことではなかったという意味である)。非常識的に立てたとすれば、その痕跡を残した史料が、存在しない。 木俣守安の養子入りは、早くても1590年以降である。また現代とは異なり、男系血統主義を重んじる武家社会にあって、木俣守勝妻の血縁である狩野氏からの養子入りと、家督相続は、守勝には弟や、男系の甥などの近縁者に、養嗣子にできる適当な人物はいなかったことの傍証となる。守勝は、家内騒動で長期に出奔した過去があったが、武家社会である以上は、出奔中に父、木俣守時の跡取りを勤めたり、当主名代を勤めることができる男子が存在したはずである。また守勝は、家族すべての人々と、円満であったわけではないことは、家内騒動で出奔したことで、明らかである。本来なら守勝に男子がなかったので、養子とされるべき弟や、兄弟の子(甥)など、血統上の繋がりがあっても、人間関係が微妙な家族があったことは、史料学的にも疑いがない。こうした微妙な関係と距離を持つ近親者が、死亡や出奔などをしていない限りは、御人減少を避け末期養子を防止するため、分家したり養子に出ないで、実子がいなかった守勝の仮養子的立場で、家族として暮らしていたはずである(木俣守勝が継母と対立し、異母弟が存在していた説があることは一般読者向け書籍にも紹介されている)。 実の男子に恵まれなかった木俣守勝が、御人減少を避け末期養子を防止して、仮養子的な立場にある弟や、兄弟の子(甥)を、すべて養子に出したり、他家・他藩に転籍させたり、分家を立てさせるのは、天正18年(1590年)以降でないと、齟齬しない。 天正18年(1590年)木俣守勝は、上野国箕郷に領地をたまわり3000石となった。このときに井伊氏家臣団に編入されて御付人(事実上の筆頭家老)となった。木俣守勝は、1590年〜1602年までの12年間、箕郷(現在の群馬県高崎市)に拠点を持ち、藩主牧野氏・先祖の居城となった大胡は、群馬県前橋市であるため近距離である。ちなみに関ヶ原の合戦は1600年である。 小諸家臣木俣氏が、三河譜代近江国彦根藩筆頭家老・木俣守勝家から分かれと主張する小諸市乙の木俣家碑文が真実とすれば、木俣守勝の代を含む以降で、分家するか分かれていなければ、三河譜代近江国彦根藩筆頭家老・木俣守勝家というには、正確・厳密な説明とは言い難い。 1590年当時、養子の木俣守安は4歳である一方、養父の木俣守勝(1555年生まれ)は35歳で、箕郷に本拠地を持ち、生殖能力がある年齢である。従って、大胡城家臣、木俣惣右衛門は、(1)木俣守勝と、血縁はあっても、養嗣子に選ばれなかった分家筋か、(2)何らかの特別な事情があって、守勝が、実子を廃嫡したり、弟や兄弟の子(甥)を養嗣子として選ばず、箕郷から近い大胡に出したということは、あり得るかもしれない。これを各種史料に、あてはめてみると、彦根・木俣氏関係史料によると守勝には、実の男子の痕跡と、守勝の庶子が立てた分家の成立が認められない。また寛政重修諸家譜には、木俣守勝が井伊氏の御付人に転じた後に、家康の旗本に残してきた木俣一族に関する記載がないため、こうした分家筋の家系は、なかったとみられる。要するに、こうした一連の事実や、文献により木俣氏の分脈は、正当な血統を持ちながら、徳川旗本や、井伊氏家臣団からは、駆逐・駆除されていることがわかる。 彦根・木俣氏関係史料には、天正18年(1590年)上野国箕郷(高崎)に三河国から移ってきたこと。その後、井伊氏家臣団の編成替えがあったこと、木俣守勝妻の血縁であっても、守勝とは血縁がない北条遺臣の血を濃く引く守安を、正式に養子を定めて跡取りにしたこと、及び人間関係が微妙な近縁者の存在があったことに関する記述はあるが、「微妙な近縁者を大胡に転属させたこと」を明記した記事はない(微妙な近縁者を大胡に転属させなかったと明記した記事もない)。 慶長7年(1602年)、木俣守勝は、井伊氏に随従して近江国に移った。慶長15年(1610年)死去により、北条遺臣の血を濃く引く、養嗣子・木俣守安が家督。近江国移封のときには、守安は満12歳に過ぎず、この時代ではまだ生殖能力があったとは考えにくい。なお彦根藩主に仕えた木俣氏は、子々孫々連綿と明治維新まで、常時、筆頭家老の役職にあったわけではない。 封建時代は、実子がいても、養子を取ることが、おかしくなかった時代ではある。しかし、彦根木俣氏関係文書には、木俣守勝に複数の養子が存在して、その1人が、大胡城主牧野氏に仕えたとする記事や、推察される記事は存在しない。 彦根木俣氏関係文書には、藩主牧野氏の先祖が、牛久保在城期に、召し抱えたとみられる木俣氏庶子を、比定することはできない。これは、牛久保城古図に木俣姓の屋敷が存在しないことと、符合する。 三河国来住前の木俣氏は、伊勢国朝明郡で、根を張っていた小領主である。一般向けの書籍としては、四日市市誌などが朝明郡の木俣氏について、簡単に触れている。牛久保関係者とは、異なった独自の歴史を有することが、明らかに確認できる。繰り返しになるが、木俣氏(木俣守勝家から分かれた家)が、突如として、降って沸いたように、史料や各種文献に背いて、三河国牛久保の歴史に登場し、小諸市乙の木俣家碑文に刻まれているように、「牧野家と共に、三河国牛久保城」ということは、到底考えにくい。また木俣守勝家の分かれこそが、大楠公(楠木正成)と、楠木一族の血をひく家柄である可能性と、痕跡については、忘却のかなたに追いやられてしまったのかもしれない。
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