小諸における木俣氏の分家・庶子とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > 小諸における木俣氏の分家・庶子の意味・解説 

小諸における木俣氏の分家・庶子

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/06/15 19:53 UTC 版)

小諸藩牧野氏の家臣団」の記事における「小諸における木俣氏の分家・庶子」の解説

分家庶子関係について述べると、家老職木俣重(郎)右衛門成庸の庶子が、小諸家臣成瀬氏養子入りをして、班を進めて番頭職を勤めた。また化政期家老職木俣右衛門成績庶子音次郎は、はじめ兄、木俣多門養子となったが、後に小諸家臣真木九馬左衛門家に養子入りした。養子入り後に養家家族トラブルになり、家内取締懲戒処分受けたが、処分後に江戸留守居役勤めた天保3年1832年)、木俣氏(重郎右衛門多門家系)の分家である木俣熊之進家が、小諸藩主が喪に服しているときに舞を踊るなどの不敬があり懲戒処分となったこの分家は、小諸に入封後に、木俣重郎右衛門家の名跡分与したてられた家である。 父の代に9代藩主康哉が行った懲戒処分で、家が没落しかけていた木俣熊之進成勲は、家督相続後に、うってかわって9代藩主用いられ給人格の家柄ありながら取次公用人などに抜擢された(後に持高20加増され計70石。連綿する家柄が、給人格から奏者格に格式昇格となった)。9代藩主死後に、家老加藤六郎兵衛成美腹心として、重きをなして台頭した小諸騒動では、加藤六郎兵衛成美牧野馬成賢の一味となり、斬首執行正使勤めた後に参政用人加判)に抜擢されたとみられ、加藤牧野馬派失脚時、収監された。同罪者と同じく1年後牢獄から出所して謹慎100となった謹慎中に急死した死因について明記がないため諸説がある。家督相続は、若輩木俣兌道に認められ士分中禄となった。 また木俣別家(旧片山姓)の木俣家(9代藩主による改革後持高50石・給人格)は、牧野隼人成聖妹婿となり引き立てられ給人大目付などを歴任した。これより前、文化15年1818年)ごろ、小諸藩木俣等は、藩庁許可の下、お伊勢参り敢行。このときの旅行記現存東北大学)。 維新期に木俣姓の小諸家臣は4家(木俣負靱成文、同逸馬成昌、同本正忠、同東馬正邦)があった。藩主牧野氏与板分家立藩にあたり別家召し出しとなった木俣氏家祖兄弟であるが、木俣重(郎)右衛門家系となるのは木俣成文小諸惣領家)、同成昌の家系である。一時片山姓を称した木俣氏家系となるのは木俣正忠(士分中禄)と、木俣東馬正邦(士分下禄・持高28石・馬廻り格)である。

※この「小諸における木俣氏の分家・庶子」の解説は、「小諸藩牧野氏の家臣団」の解説の一部です。
「小諸における木俣氏の分家・庶子」を含む「小諸藩牧野氏の家臣団」の記事については、「小諸藩牧野氏の家臣団」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「小諸における木俣氏の分家・庶子」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「小諸における木俣氏の分家・庶子」の関連用語

小諸における木俣氏の分家・庶子のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



小諸における木俣氏の分家・庶子のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの小諸藩牧野氏の家臣団 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS