小諸における木俣氏の分家・庶子
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「小諸藩牧野氏の家臣団」の記事における「小諸における木俣氏の分家・庶子」の解説
分家・庶子関係について述べると、家老職・木俣重(郎)右衛門成庸の庶子が、小諸家臣成瀬氏に養子入りをして、班を進めて番頭職を勤めた。また化政期の家老職・木俣渋右衛門成績の庶子・音次郎は、はじめ兄、木俣多門の養子となったが、後に小諸家臣真木九馬左衛門家に養子入りした。養子入り後に養家の家族とトラブルになり、家内不取締で懲戒処分を受けたが、処分後に江戸留守居役を勤めた。 天保3年(1832年)、木俣氏(重郎右衛門・多門家系)の分家である木俣熊之進家が、小諸藩主が喪に服しているときに舞を踊るなどの不敬があり懲戒処分となった。この分家は、小諸に入封後に、木俣重郎右衛門家の名跡を分与してたてられた家である。 父の代に9代藩主康哉が行った懲戒処分で、家が没落しかけていた木俣熊之進成勲は、家督相続後に、うってかわって9代藩主に用いられ、給人格の家柄でありながら、取次・公用人などに抜擢された(後に持高を20石加増され計70石。連綿する家柄が、給人格から奏者格に格式昇格となった)。9代藩主の死後に、家老加藤六郎兵衛成美の腹心として、重きをなして台頭した。小諸騒動では、加藤六郎兵衛成美・牧野求馬成賢の一味となり、斬首執行の正使を勤めた後に参政(用人・加判)に抜擢されたとみられ、加藤・牧野求馬派失脚時、収監された。同罪者と同じく約1年後に牢獄から出所して、謹慎100日となったが謹慎中に急死した。死因について明記がないため諸説がある。家督相続は、若輩の木俣兌道に認められて士分中禄となった。 また木俣別家(旧片山姓)の木俣本蔵家(9代藩主による改革後の持高50石・給人格)は、牧野隼人進成聖の妹婿となり引き立てられ、給人・大目付などを歴任した。これより前、文化15年(1818年)ごろ、小諸藩士木俣本蔵等は、藩庁の許可の下、お伊勢参りを敢行。このときの旅行記が現存(東北大学蔵)。 維新期に、木俣姓の小諸家臣は4家(木俣負靱成文、同逸馬成昌、同本蔵正忠、同東馬正邦)があった。藩主牧野氏が与板に分家・立藩にあたり、別家召し出しとなった木俣氏の家祖は兄弟であるが、木俣重(郎)右衛門家系となるのは木俣成文(小諸惣領家)、同成昌の家系である。一時片山姓を称した木俣氏家系となるのは木俣正忠(士分中禄)と、木俣東馬正邦(士分下禄・持高28石・馬廻り格)である。
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