宗匠検定法
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明治24年6月、本山妙心寺からの特命により、伊達家の看華院である瑞巌寺の住職に任命される。 瑞巌寺のある旧仙台藩は武士およびその家族だけで、明治2年の版籍調査時点で20万人を超え、総人口約81万人の23%以上を占めていた。これが版籍奉還後、禄高は大幅に削減され、陪臣に至ってはほぼ無禄となった。明治9年に扶持米制度も廃止され、わずかな公債のみの支給となった士族の多くが没落していった。瑞巌寺もその寺領、扶持米を失い、さらに明治政府の祭政一致の方針に基づく神仏判然令や廃仏毀釈の運動によって伊達家の菩提寺としての立場を放棄せざるを得ない状態だった。とみに末寺との軋轢が問題化しており、その中で鄧州の辣腕に期待がかかっていた。 鄧州は後に大徳寺管長となる見性宗般(けんしょう しゅうはん)ら弟子10人と共に瑞巌寺に入ろうとしたが、塔頭円通院住職の花山柏齢和尚は一行の入門を拒否。一行は構わず中門から入り、草鞋を脱いで上堂し、即座に鐘を三打、随行者のみで晋山式を執り行った。そして快刀乱麻の勢いで、まず柏齢ら旧住職らを追放すると弟子たちを各所に配置して寺を支配下においた。そして、ただちに松島の末寺を調査して廻り、20あまりの無認可寺を摘発し本山に上申した。このことは本山の意向とは言え、寺領を横領していた地域民との軋轢を生じさせる結果となる。 瑞巌寺住職としての鄧州は、かつて達磨大師所縁の地として海無量寺があった松島扇谷の達磨堂再興、雄島坐禅堂再興など、数多くの堂宇再興に尽力している。その反面、財政面では芳しい結果を出せずにいたらしく、昭和8年(1933年)に著された『仙台人名大辞書』でも「興復に努力すること数年、未だ旧観に復するに至らず」とその評価は高くない。明治28年には旧仙台藩士によって瑞巌寺保全のための組織、保瑞会が組織されたが、鄧州との関係は良好ではなかった。 その一方、瑞巌寺には仙台から多くの参詣者が訪れるようになり、中でも第二師団長として赴任してきた乃木希典は休日になると足しげく通うようになる。乃木の参禅は乙未戦争を経て台湾総督に赴任するまで継続した。これに前後して晋山以前から瑞巌寺に預けられていた中原秀嶽(なかはら しゅうがく)の蓬髪を行い、自らの養子にしている。 初めて大寺の住職になったこの時期は鄧州の絶頂期とも言えるが、寺の賑わいに反して鄧州は禅門の乱れを糺さねばならぬという義憤の念はより強くなり、それが明治29年の「宗匠検定法」嘆願となった。当時妙心寺派の師家は68人いたが、検定法はそれら師家全員を本山に呼び寄せては鄧州らによる問答の再試験を行い、不合格だった者は師家の資格を剥奪して再行脚を命ずる内容であった。建議以前にも度々上洛し、検定法成立に向けて、かつて教えを受けた師家たちから連判を募り、当時の管長である匡道慧潭(きょうどう えたん)の内諾も得た。だが、この検定法は一応は匡道管長の所にまでは届いたものの、結局は実現することはなく、内々での話し合いの結果、黙殺されることになる。なぜ実現されなかったのかは不明であるが、鄧州は『行脚録』にて、(現代的表現で説明すれば)実際の運営が困難であり、また正式な建議の形(鄧州は瑞巌寺の対処を陳情する建議に便乗して嘆願した)を踏んでいなかったのでコンセンサスを得ることができなかったのではとしている。いずれにせよ、長年の懸案か全く介されなかったばかりか、同僚の多くから恨みを買った鄧州は禅門に対する幻滅を痛感するようになった。だが、瑞巌寺に帰って来た鄧州を待っていたのは檀家たちによる弾劾と押込であった。 鄧州が上洛している最中、瑞巌寺の小坊主が参拝客に伊達政宗の木像を見せるために燭台を近づけすぎて、木像の鼻に煤が付き、それを拭おうとしたら鼻が破損する事案が起こった。保瑞会の面々はこの事案を不敬と訴え、鄧州の監督不届きを糾弾し、各所で弾劾の集会が開かれた。維新の敗北者として忍従の日々を送っていた旧仙台藩士にとって昔日の伊達家は心の拠り所であり、一方で肥前の出身であり、周防毛利家の菩提寺で住職を経験していた人物がいきなり乗り込んで大鉈を振るう光景は、鄧州を憎き明治政府の横暴ぶりと重ね合わさるに十分なものであった。さらに6月15日(旧暦5月5日)に起こった明治三陸地震に伴う大津波で宮城県北部の沿岸地域が壊滅的な被害を受け、もはや検定法どころではなかった。 かくして鄧州は謹慎の身となり、宗匠検定法嘆願で多くの僧に疎んじられていた鄧州に本山からの助けはなく、完全に孤立無援となった。結局、11月に瑞巌寺を辞し、秀嶽らとともに同県名取郡生出村茂庭(現在の仙台市青葉区茂庭)にある大梅寺に入った。大梅寺は禅修行の古刹として知られ、かつては伊達家から150石の寄進を受けていたが廃藩置県とともに寺領もなくなり、鄧州が入山した当時は近隣に檀家と思しき家は数軒のみ、とうに朽ち果てた荒れ寺と化していた。実質的な追放であった。清貧の暮らしには慣れているはずの鄧州ですら、「この大梅の貧乏なことと云ったら話にならぬ」とぼやきの声を残している。 大梅寺での生活は困窮を極め、鄧州は千五百枚以上の揮毫を贈り、堂内の倒木や廃墟の資材で仮普請をしていたが、仏事はおろか日々の生活ですらままならぬ状態だった。大衆の奮起を促すべく行脚に活路を見出さんとしたが、その路銀ですら経営を圧迫した。それでも一時的ではあるが禅堂が復興し、禅僧の育成に尽力している。だが、明治32年の12月には暴風雨が発生しており、倒木によって山門が破壊されるなど、壊滅的な打撃を受けている。さらに幼少時から可愛がっていた秀嶽が大梅寺を暇し、鎌倉円覚寺の釈宗演の元に行ったのも追い打ちとなった。 明治33年(1900年)、肥前梅林寺での同門で建仁寺管長であった竹田黙雷の懇請により、この時期、円福寺師家となっていた宗般が清国に渡航しているので臨時の師家になるよう命じられた。鄧州の理解者である黙雷の説得に本山が黙認し非公式に了承してのことだった。形の上では兼任であったが、陸前と山城では距離がありすぎる訳で、事実円福寺へと旅立った鄧州は以後二度と大梅寺に戻ることはなかった。無期限の暫暇となった大梅寺に残された僧侶は四散し、鄧州が遺した借金の精算のために山林が売られた大梅寺はその後また無住の荒れ寺へと戻っていった。事実上の職務放棄であり、両親の位牌や京都から連れてきた小坊主の安松も置き去りにしてきた、鄧州にとっては後味の悪い退山となった。その後、大梅寺から荷札をつけて送り出された安松とは上野駅で再会。後に槐安を名乗った安松はやがて、玉川遠州流5代家元・大森宗龍の懇請により大森家の養子となり、7代目宗匠・大森宗夢となる。 円福寺に戻った鄧州はここで長年愛用していた南天棒を同寺に納めた。その齢になってまで持ち歩くものではないという黙雷の指摘に応じてのことだった。併せて以前、扇谷の達磨堂を修復する際に荒れ地から掘り起こした萩の木から作った棒も奉納した。元々六尺五寸だった南天棒を二つに切った物だという説もあるが、『南天棒行脚録』ではそのような話はない。
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