宗匠検定法とは? わかりやすく解説

宗匠検定法

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/13 05:10 UTC 版)

中原鄧州」の記事における「宗匠検定法」の解説

明治24年6月本山妙心寺からの特命により、伊達家の看院である瑞巌寺住職任命される瑞巌寺のある旧仙台藩武士およびその家族だけで、明治2年版籍調査時点20万人超え総人口81万人23%以上を占めていた。これが版籍奉還後、禄高大幅に削減され陪臣至ってはほぼ無禄となった明治9年扶持米制度廃止されわずかな公債のみの支給となった士族多く没落していった。瑞巌寺もその寺領扶持米失い、さらに明治政府祭政一致方針に基づく神仏判然令や廃仏毀釈運動によって伊達家菩提寺としての立場放棄せざるを得ない状態だった。とみに末寺との軋轢問題化しており、その中で鄧州辣腕期待かかっていた。 鄧州は後に大徳寺管長となる見性宗般(けんしょう しゅうはん)ら弟子10と共に瑞巌寺入ろうとしたが、塔頭円通院住職花山和尚一行入門拒否一行構わず中門から入り草鞋脱いで上堂し、即座に鐘を三打、随行者のみで晋山式執り行った。そして快刀乱麻勢いで、まず齢ら旧住職らを追放する弟子たち各所配置して寺を支配下においた。そして、ただちに松島末寺調査して廻り20あまりの無認可寺を摘発し本山上申した。このことは本山意向とは言え寺領横領していた地域民との軋轢生じさせる結果となる。 瑞巌寺住職としての鄧州は、かつて達磨大師所縁の地として海無量寺があった松島扇谷達磨堂再興雄島坐禅再興など、数多く堂宇再興尽力している。その反面財政面では芳しい結果出せずにいたらしく、昭和8年1933年)に著された『仙台人名辞書』でも「興復努力すること数年未だ旧観復する至らず」とその評価高くない明治28年には旧仙台藩士によって瑞巌寺保全のための組織、保瑞会が組織されたが、鄧州との関係は良好ではなかった。 その一方瑞巌寺には仙台から多く参詣者が訪れるようになり、中でも第二師団長として赴任してきた乃木希典休日になると足しげく通うようになる乃木参禅乙未戦争経て台湾総督赴任するまで継続した。これに前後して晋山以前から瑞巌寺預けられていた中原秀嶽(なかはら しゅうがく)の蓬髪行い、自らの養子にしている。 初め大寺住職になったこの時期鄧州絶頂期とも言えるが、寺の賑わい反して鄧州禅門乱れを糺さねばならぬという義憤の念はより強くなり、それが明治29年の「宗匠検定法」嘆願となった当時妙心寺派師家68人いたが、検定法はそれら師家全員本山呼び寄せて鄧州らによる問答再試験行い不合格だった者は師家資格剥奪して再行脚命ず内容であった建議以前にも度々上洛し、検定法成立向けて、かつて教え受けた師家たちから連判募り当時管長である匡道慧潭きょうどう えたん)の内諾得た。だが、この検定法は一応は匡道管長の所にまでは届いたものの、結局は実現することはなく、内々での話し合い結果黙殺されることになる。なぜ実現されなかったのかは不明であるが、鄧州は『行脚録』にて、(現代的表現説明すれば実際の運営が困難であり、また正式な建議の形(鄧州瑞巌寺対処陳情する建議便乗して嘆願した)を踏んでいなかったのでコンセンサスを得ることができなかったのではとしている。いずれにせよ長年懸案か全く介されかったばかりか、同僚多くから恨みを買った鄧州禅門対す幻滅痛感するようになった。だが、瑞巌寺帰って来た鄧州待っていたのは檀家たちによる弾劾押込であった鄧州上洛している最中瑞巌寺小坊主参拝客に伊達政宗木像見せるために燭台を近づけすぎて、木像の鼻に煤が付き、それを拭おうとしたら鼻が破損する事案起こった。保瑞会の面々はこの事案不敬訴え鄧州監督不届き糾弾し各所弾劾集会開かれた維新敗北者として忍従日々送っていた旧仙台藩士にとって昔日伊達家は心の拠り所であり、一方で肥前出身であり、周防毛利家菩提寺住職経験していた人物がいきなり乗り込んで大鉈を振るう光景は、鄧州を憎き明治政府横暴ぶりと重ね合わさる十分なものであった。さらに6月15日旧暦5月5日)に起こった明治三陸地震に伴う大津波宮城県北部沿岸地域壊滅的な被害を受け、もはや検定法どころではなかった。 かくして鄧州謹慎の身となり、宗匠検定法嘆願多くの僧に疎んじられていた鄧州本山からの助けはなく、完全に孤立無援となった結局11月瑞巌寺辞し、秀嶽らとともに同県名取郡生出村茂庭(現在の仙台市青葉区茂庭)にある大梅寺入った大梅寺は禅修行古刹として知られかつては伊達家から150石の寄進受けていたが廃藩置県とともに寺領なくなり鄧州入山した当時近隣檀家思しき家は数軒のみ、とうに朽ち果てた荒れ寺化していた。実質的な追放であった清貧暮らしには慣れているはずの鄧州ですら、「この大梅の貧乏なことと云ったら話にならぬ」とぼやきの声を残している。 大梅寺での生活は困窮極め鄧州千五百上の揮毫贈り堂内倒木廃墟資材仮普請をしていたが、仏事はおろか日々の生活ですらままならぬ状態だった。大衆奮起促すべく行脚活路を見出さんとしたが、その路銀ですら経営圧迫した。それでも一時的ではあるが禅堂復興し禅僧育成尽力している。だが、明治32年12月には暴風雨発生しており、倒木によって山門破壊されるなど、壊滅的な打撃受けている。さらに幼少時から可愛がっていた秀嶽が大梅寺を暇し、鎌倉円覚寺釈宗演元に行ったのも追い打ちとなった明治33年1900年)、肥前梅林寺での同門建仁寺管長であった竹田黙雷懇請により、この時期円福寺師家となっていた宗般が清国渡航しているので臨時師家になるよう命じられた。鄧州理解者である黙説得本山黙認し非公式に了承してのことだった。形の上では兼任であったが、陸前山城では距離がありすぎる訳で、事実円福寺へと旅立った鄧州以後二度と大梅寺に戻ることはなかった。無期限の暫暇となった大梅寺残され僧侶四散し鄧州が遺した借金精算のために山林売られ大梅寺その後また無住荒れ寺へと戻っていった。事実上職務放棄であり、両親位牌京都から連れてきた小坊主安松置き去りにしてきた、鄧州にとっては後味の悪い退山となったその後大梅寺から荷札をつけて送り出され安松とは上野駅再会。後に安を名乗った安松はやがて、玉川遠州流5代家元大森宗龍の懇請により大森家養子となり、7代目宗匠大森宗夢となる。 円福寺戻った鄧州はここで長年愛用していた南天棒を同寺に納めた。その齢になってまで持ち歩くものではないという黙指摘に応じてのことだった。併せて以前扇谷達磨堂修復する際に荒れ地から掘り起こしたの木から作った棒も奉納した。元々六尺五寸だった南天棒を二つ切った物だという説もあるが、『南天行脚録』ではそのような話はない。

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