全国禅道場に殴り込む
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その後、30歳になった鄧州は、東京本所天祥寺の鶴林和尚が輪番で総本山妙心寺に出向くに従って、彼の侍衣(師家の衣服や所持品、金銭を預かる役目。転じて、管長の秘書官的な役割を指す)に任じられ妙心寺に入る。その任務中に父・壽兵衛の訃報が届くが、鄧州は「棄恩入無為こそが真実の報恩じゃ。葬儀に列したからとて死んだ父は喜びもしまい」と帰国はしなかった。1年後、明治3年に任務を終えた鄧州は、周防徳山藩の毛利元蕃 の招きで徳山毛利家の菩提寺である大成寺(山口県周南市舞車)の住職に任命された。折しもその年は奇兵隊脱隊騒動とその首謀者大楽源太郎の脱走騒ぎがあり藩内は混乱していたが、鄧州は禅道場を開設し、寺内に明治元年に解崩した澄泉寺 を再興した。大成寺には羅山門下の修行者たちが鄧州の元に馳せ参じ、大成寺は大いに賑わった。 明治6年、大徳寺、妙心寺両派から全国の末寺を視察するための本山議事の役目を仰せつかる。当時、明治4年に大教宣布の勅が発せられ、僧侶たちも教導職に就くことが要求されたので、そのために宣布の宣伝と僧侶の点検をする必要があった。鄧州は修行仲間とともに大教院のあった芝増上寺を出て、東海道沿いに説教活動を行った。その途路、遠州中山で毛利元蕃と再会し、彼から「中原」の姓を賜る。鄧州らは京都に到着し、その足で西日本各地を巡歴した。 日向から豊後に至る道すがら、とある農家の牛小屋の脇に樹齢2百年になる南天の樹が生えていた。その見事さに感嘆した鄧州は、「こうして牛小屋の隅に置けば只の南天じゃ。これから何年の寿命じゃ、一度は枯れるじゃ。しかし枯れたとて何の変哲もない。ただ家内の者らが惜しいことをした云うだけじゃが、これがワシの手に入ると、一つの法器となって、万世までこの南天が鳴り響くが、どうじゃワシにくれぬか」と頼み込み、木を切り取ってもらった。かくして手に入れた棒を手に、「これがワシの竹篦じゃ。これで天下の衲僧を打出するのじゃ」と言い放つと仲間たちは「それじゃあ貴公は南天棒じゃな」と返され、以来南天棒が鄧州の渾名となった。後にこの棒は三尺五寸に切り揃えられ、「臨機不譲師」と刻まれた。これが、『南天棒行脚録』の方で示された南天棒取得のエピソードである。 自らの名となった南天棒を獲得した鄧州は明治7年、36歳の時と翌々年明治9年に全国の禅道場を経巡り、師家相手に法戦を挑んでいる。鄧州が乗り込んだ道場は25か所に上り、未熟者だと断じれば容赦なく三十棒として南天棒で殴りつけた。居留守を使う者には庭先で座り込み、現れた所に痛棒を喰らわせた。しまいには、電話も電信も不十分だった時代なのに南天棒来るの噂が伝わり震え上がっていた者すらいた。無敗だった訳ではなく、かつて鄧州も私淑した越渓守謙(えっけい しゅけん)の高弟、鉄牛祖印(てつぎゅう そいん)との法戦には破れている。 明治12年、京都建仁寺で臨済宗各宗派による大会議が行われ、東京湯島の麟祥院と八幡円福寺に臨済僧のための大教校(学校)を設立することが建議されたが、鄧州は学問は俗人がすることであり、坊主は悟りを得るために専念するべきなのだから禅堂を作るべきだと反対した。鄧州の反対意見に賛同する者は少なく、大いに憤激した鄧州は後の「宗匠検定法」嘆願をはじめ、本山妙心寺に嘆願を繰り返すことになる。ちなみに、後に円福寺の師家・伊庵和尚が病に倒れ鄧州が代任として赴任した際、八幡の大掃除と称して大教校の用具を焼き払い、その跡に禅堂を創設している。 その前年、明治11年から鄧州は山城国相楽郡上狗村椿井(現在の京都府木津川市相楽郡山城町大字椿井)に白崖山弘済寺を建立するべく活動を始めている。弘済寺は竣成までに6年かかったが、総門の額を当時の京都府知事北垣国道が揮毫し、玄関の額を京都府大書記官の尾越蕃輔が、書院の額を鳥尾小弥太が、そして方丈の額には山岡鉄舟が揮毫と、各界の名士が伽藍建立に随喜し墨跡を寄贈した。この頃には鄧州の名声は諸国に響き渡り、僧侶在家を問わず多くの帰依者を得ていた。明治17年、建立した弘済寺に住山した鄧州は、その年11月には全国31師家の代表として妙心寺に乗り込み、寺班新設などの嘆願書を提出している。 明治13年、円福寺の代理師家の任を終えた鄧州は天王山を訪問。禁門の変当時、久留米梅林寺で修行していた関係から、真木保臣の菩提を弔うため、宝積寺にて法要を行った。その際、真木らが正式な葬式が行われていなかったため、この法要を招魂祭とした。その後、鳥尾の筆による忠魂碑が建てられた。 翌、明治18年には妙心寺派管長の無学大和尚から、東京南麻布にある曹渓寺選仏道場師家に任命される。鄧州はこの寺で山岡鉄舟と本格的な交友を始めることになり、やがて山岡の勧めで、市ヶ谷の瑞光山道林寺に移った。当時の道林寺は僅か6畳ほどの本堂と3畳の観音堂があるだけの廃寺だったが、鄧州は12人の弟子と共に江湖選仏道場を設立。僧俗50人余りの修行場として再興した寺だったが、それだけの人数を容れるだけの広さがなかったので、墓前や檀家の蘭塔場で座禅する者すらいた。以来、山岡はこの寺で禅の修行をし、鄧州らの世話人を務めた。道林寺での山岡との交友は明治21年7月21日に山岡が死ぬまで続いた。また、この寺で乃木希典と知り合った。
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