全国社会人大会4連覇達成
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/03/28 03:49 UTC 版)
「新日鉄住金八幡ラグビー部」の記事における「全国社会人大会4連覇達成」の解説
1962年度、王者奪回を果たすべく、山崎靖彦をコーチに据え、主将の松信要三(明治大学出身)との「二人三脚体制」がスタートした当チームは、決勝で谷藤機械(現 フリージア・マクロス)を破り9度目の全国社会人大会優勝を果たした。さらに同年度は、第3回日本協会招待NHK杯において明治大学を25-6で破り、2度目の同大会優勝を果たした。 1963年度、宿敵・近鉄を破って10度目の全国社会人大会優勝を果たした当チームは、4チームで覇が競われた、第1回日本ラグビーフットボール選手権大会(以下、日本選手権)に出場。しかし、1回戦で同志社大学に敗れた。だが1964年度、トヨタ自工を下して3度目の全国社会人大会3連覇を達成した当チームは、1965年1月15日に行なわれた第2回日本選手権において、法政大学を15-6で下し、初のラグビー日本一の座に就いた。 しかし1964年度のシーズン終了後、宮井が引退。さらに草津も突然引退し、プロレスへの転向を表明をしたあたりから当チームの衰退の兆しが見え始めてきた。加えて以前より、新人の補強がままならなくなっていたことや、山崎コーチと松信主将の確執が表面化し、後に山崎がチームを去る事態になったこともあって、以前よりチーム力の低下が顕在化していた。 それでも、宮井と草津が抜けたにもかかわらず、1965年に入社した高卒ルーキーの寺井敏雄が草津の穴を埋める活躍をしたこともあり、同年度の全国社会人大会では、近鉄を8-3で下し、ついに史上初の同大会4連覇を達成。さらに同大会の優勝記録を12に伸ばした。しかし、それが当チーム最後の栄光となってしまうのである。
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