海清寺赴任と、平塚らいてうとの出会い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/13 05:10 UTC 版)
「中原鄧州」の記事における「海清寺赴任と、平塚らいてうとの出会い」の解説
明治35年に妙心寺3世従事、無因宗因開山の古刹である兵庫県西宮六湛寺町の海清寺住職に任命された。かつて応永の乱で大内義弘に荷担したため弾圧、廃寺となった妙心寺の法系を継承した妙心寺派にとって重要な寺院だったが、町名由来の六湛寺 とともに江戸時代までには衰微していた。鄧州は以来、遷化までの22年間、この寺の再興に尽くした。瑞巌寺や大梅寺、宗匠検定法での挫折によって、それまで修行僧の育成に専心してきた鄧州は居士の育成に力を注ぐようになり、毎月の提唱会や冬安居には多くの居士が参禅した。「俺の書くものが一枚一枚お寺の瓦となり、畳となるのじゃ。そう思うとじっとしていられるものじゃない」と、乞われるがままに毎日立て続けに5、60枚の揮毫をしたため、それ以上の手紙を書いていた。また、全国の居士の要請に応じて法事や坐禅会に赴いた。東京へは常に夜行列車を用いたので、車窓から富士山を拝むことがなかった。 明治41年のこと、弟子で医師である岡田自適が神田美土代町に設立した東京禅学堂にいた際、1人の女性が鄧州を尋ねた。当時22歳の平塚明、後の平塚らいてうである。平塚は早くから禅に傾倒し、日暮里にある円覚寺派の禅道場、「両忘庵」で釈宗演の弟子、当時まだ30代の釈宗活に師事し、「慧薫(えくん)禅子」の道号を得ていた。だが、この年に森田草平との恋愛から心中騒ぎ(塩原事件)を起こし、世間の批判的な耳目にさらされていた。 だが、入室した平塚を待っていたのは、鎌倉禅(円覚寺派)に対する鄧州の容赦ない批判であった。円覚寺派には養子・秀嶽を取られたという憤りがあったが、鄧州は知っては知らずか、平塚と秀嶽との間にはさらに深い因縁があった。両忘庵で見性を得た平塚だったが、それでも合点がいかず、浅草松葉町にある海禅寺に、興津清見寺住職の坂上真浄和尚を招いての提唱会に出向いた。海禅寺は阿波蜂須賀家の看華院だったが、ここも明治時代に法灯途絶え、荒れ寺と化していた。そこで円覚寺が再興のために派遣したのが秀嶽であった。ある早春の日の夜、寺で夜遅くまで書見をしていた平塚を出迎えた秀嶽に平塚は接吻をした。平塚は挨拶代わりの気持ちだったと弁明しているが、動揺した秀嶽と一悶着があった。 その経緯はともかく、平塚は日本禅学堂の月並接心に出入りするようになる。明治42年には12月8日に釈迦が成道したことにちなみ、1日から8日までの間徹夜で行われる蠟八接心に臨んだ。一週間、簡素な食事のみで衣服は着たまま、風呂もなしで裸足のまま火の気のない禅堂での座禅である。しかも麦飯が胃に合わず、ほぼ絶食状態での座禅であったが、平塚は出席者の中でただ1人やり遂げ、鄧州から見性の証として「全明」の大姉号を授かった。 平塚と鄧州との接心は明治44年に平塚が『青鞜』を創刊する前後まで続いた。平塚はその後、海禅寺住職となった秀嶽と明治44年に再会し、その後肉体関係を持ちながら解消されたことが、『原始、女性は太陽であった』で記されている。この書の影響で、秀嶽は義父譲りの大酒飲みで、遊郭に入り浸る破戒僧のイメージがついているが、釈宗括らとともに東京の臨済宗禅僧の互助会、「円成会」を組織し、また真浄老師の伝記を遺したりと本業でも活躍。後に関東大震災によって破壊された海禅寺建て直しのために身命を賭し、その労苦のために病に倒れ、昭和3年に遷化する。
※この「海清寺赴任と、平塚らいてうとの出会い」の解説は、「中原鄧州」の解説の一部です。
「海清寺赴任と、平塚らいてうとの出会い」を含む「中原鄧州」の記事については、「中原鄧州」の概要を参照ください。
- 海清寺赴任と、平塚らいてうとの出会いのページへのリンク