南京暴行事件とは? わかりやすく解説

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南京事件

(南京暴行事件 から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/28 03:47 UTC 版)

南京事件(ナンキンじけん)は、日中戦争中の1937年12月に日本軍南京戦において、つまり中国南京市を占領した後(もしくはその前後)、数か月にわたって多数の一般市民捕虜、敗残兵、便衣兵を虐殺した事件である[1][2]南京虐殺事件[2]南京大虐殺[3]とも呼ばれる。事件の規模、虐殺の存否、戦時国際法違反か否かについては南京事件論争、犠牲者数をめぐる論争は、南京事件の被害者数にて詳細が論じられている。


注釈

  1. ^ 東京裁判判決では20万人以上とされている[6]
  2. ^ 2000年時点
  3. ^ ジョージ・ワシントン大学教授[注釈 2]の歴史学者楊大慶(Daqing Yang)は名称を巡る議論について次のようにまとめている。「一九三七年の議論をどう呼称するかについて合意がないということは、言語上の問題の一つの反映である。初めは中国で使われ、その後、日本、その他の国でも使われている『南京大屠(虐)殺』という語は、それが南京での事件の内容をどのように限定しているかを示している。大屠(虐)殺という語は、強姦や略奪や放火を軽く見ている語ではないだろうか。それはたんに虐殺だったのだろうか、それとも大虐殺だったのだろうか。他方、日本では、さまざまな文筆家によって『南京事件』という語が使われてきたが、しかし、他の国ぐにではそれは、一九三七年の恐怖に、ありふれた事件であるかのような響きを与えるものだとして多分に批判をまねいている[7]
  4. ^ 当時の新聞記事をまとめたサイトのひとつ https://www.readex.com/readex-report/issues/volume-7-issue-2/nanjing-atrocities-reported-us-newspapers-1937-38
  5. ^ 引用は笠原十九司『南京事件』72頁より。ほとんど同文の評は吉田裕『もうひとつの日中戦争史、天皇の軍隊と南京事件』にも見られる。以下は吉田の評の引用である。「上海攻略後、南京に向かう追撃戦の全過程は、すでに上海戦の段階で顕著になっていたさまざまな不法行為、残虐行為がより大規模な形で拡大される過程であり、南京事件の直接の前史をなす過程でもあった[41]。」
  6. ^ 原文のカタカナ表記をひらがなに改めた。
  7. ^ このような行軍中の虐殺行為には様々な証言がある。歩兵第20連隊の上等兵牧原信夫の陣中日記は以下のような記述を残す。「(十一月二二日)道路上には支那兵の死体、民衆および婦人の死体が見ずらい様子でのびていたのも可愛想である。橋の付近には五、六個の支那軍の死体がやかれたり、あるいは首をはねられて倒れている。話では砲兵隊の将校がためし切りをやったそうである。(十一月二六日)午前(原文注:午後の誤り)四時、第二大隊は喚声をあげ勇ましく敵陣地に突撃し、敵第一線を奪取。住民は家をやかれ、逃げるに道なく、失神状態で右往左往しているのもまったく可愛想だがしかたがない。(十一月二七日)支那人のメリケン粉を焼いて食う。休憩中に家に隠れていた敗残兵をなぐり殺す。支那人二名を連れて十一時、出発す。...鉄道路線上を前進す。休憩中に五、六軒の藁ぶきの家を焼いた。炎は天高くもえあがり、気持ちがせいせいした。(十一月二八日)午前十一時、大隊長の命令により、下野班長以下六名は小銃を持ち、残敵の掃討に行く。その前にある橋梁に来たとき、橋本与一は船で逃げる五、六名を発見、照準をつけ一名射殺。掃討はすでにこの時から始まったのである。自分たちが前進するにつれて支那人の若い者が先を競って逃げて行く。何のために逃げるのかわからないが、逃げる者は怪しいと見て射殺する。部落の十二、三家に付火すると、たちまち火は全村を包み、全く火の海である。老人が二、三人いて可愛想だったが、命令だから仕方がない。次、次と三部落を全焼さす。そのうえ五、六名を射殺する。意気揚々とあがる。(十一月二九日)武進(常州市に属する)は抗日、排日の根拠地であるため全町掃討し、老若男女をとわず全員銃殺す。敵は無錫の線で破れてより、全く浮足立って戦意がないのか、あるいは後方の強固な陣地にたてこもるのかわからないが、全く見えない[53]。」
  8. ^ 秦郁彦が引用する日本の外交官日高信六郎の東京裁判での証言によれば12月17日時点で憲兵14人、数日中に補助憲兵40人が得られるはずという状況であった。秦郁彦は上海派遣軍と第十軍を合わせて、南京占領直後に城内で活動していた日本軍の正規の憲兵は30人を越えなかったと推定している[61]
  9. ^ 「ラーべの感謝状」とは、1937年12月14日に南京安全区国際委員会ジョン・ラーベより日本軍に提出された文書「南京安全区トウ案」第1号文書(Z1)のことである[65]。この文書の冒頭に「貴軍の砲兵部隊が安全区に攻撃を加えなかったことにたいして感謝申し上げるとともに、安全区内に居住する中国人一般市民の保護につき今後の計画をたてるために貴下と接触をもちたいのであります。」とある。
  10. ^ 一九三八年一月九日 中国軍司令部の逃走した南京で日本軍虐殺行為 F・ティルマン・ダーディン上海十二月二十二日発 (中略)アメリカ伝道団の大学病院は戦闘中も開業し、一般市民の負傷者のために病院が利用できるよう努力がなされていた。しかし、若干の兵隊も入院していた。二人のアメリカ人医師(フランク・ウィルソン(訳注 正しくはロバート・O・ウィルソン)、C・S・トリマー)とアメリカ人看護婦二人(グレイス・バウアー、アイヴァ・ハインズ)はわずかの数の中国人の助けをえて、昼夜を分かたず、二〇〇人近い患者の世話をした。日本軍が市を占領するや、戦傷者救済委員会は国際赤十字の支部として組織され、外交部の建物内にあった中国陸軍の主要な病院を引き継いだ。配備可能な輸送手段は、町の全域にくりだして負傷兵を運び込んだ。市にまだ残っていた医師や看護婦を集め、この病院で仕事についてもらった。日本軍は当初、この病院を自由に活動させてくれたが、十二月十四日火曜日の朝、この場所へ外国人が立ち入ることを禁止し、中にいる五〇〇人の中国兵の運命に関与させないようにした。(以下略) (「南京事件資料集1 アメリカ関係資料編」所収) (以下英文)The American mission University Hospital operated throughout the battle, and an effort was made to keep it reserved for civilian casualties. However, a few soldiers were admitted. Two American doctors, Frank Wilson and C. S. Trimmer, and two American nurses, Grace Bauer and Iva Hynds, labored day and night with only a few Chinese helpers to care for the nearly 200 patients in their charge. When the Japanese had occupied the city, the war wounded relief committee within a few minutes organized themselves as a chapter of the International Red Cross and took over the main hospital of the Chinese Army in the Foreign Ministry building. What transport could be marshaled was sent throughout the city to bring in wounded soldiers, and Chinese doctors and nurses still in the city were rallied to work at the institution. The Japanese at first permitted free function of this hospital, but on Wednesday morning, Dec. 15, they barred foreign access to the place and would make no commitments as to the fate of the 500 Chinese soldiers within. 和文「南京事件資料集1 アメリカ関係資料編」所収 英文 New York Times Jan 9 1938)
  11. ^ 当時の新聞記事をまとめたサイトのひとつ https://www.readex.com/readex-report/issues/volume-7-issue-2/nanjing-atrocities-reported-us-newspapers-1937-38
  12. ^ 笠原十九司によれば、当時の駐日アメリカ大使ジョセフ・グルーは日記においてパナイ号事件によって日米の国交断絶を覚悟したと記している。日米開戦にも繋がりかねないこの事件を巡る交渉の方に注目が集中したのは自然の成り行きであった[123]。また、パナイ号はジャーナリストの一時待機所になっており、日本軍の南京占領直前までに行われた取材活動の資料などはパナイ号と共に失われた[124]。パナイ号事件を研究するアメリカの研究者の間では、この事件は真珠湾攻撃に至る日米開戦への転機と位置付けられている[125]
  13. ^ 1937年12月2日に松井石根大将から交代。
  14. ^ 1937年12月28日、稲葉四郎中将に交代。
  15. ^ 海軍
  16. ^ 秦郁彦が引用する日本の外交官日高信六郎の東京裁判での証言によれば12月17日時点で憲兵14人、数日中に補助憲兵40人が得られるはずという状況であった。秦郁彦は上海派遣軍と第十軍を合わせて、南京占領直後に城内で活動していた日本軍の正規の憲兵は30人を越えなかったと推定している[61]
  17. ^ これについて秦郁彦は「松井大将は元来が南京攻略論者だったし、上海派遣軍をひきいる立場から第十軍とのライバル意識を刺激されたのかもしれない」と評している[167]。また、笠原十九司は現地入りしていた武藤が南京進撃を成功させるために、第10軍(第6師団)の急進撃と戦果を称える一方で上海派遣軍(第16師団)の戦果をこき下ろすような電報を第16師団宛てに送り、第10軍と上海派遣軍の南京一番乗り競争を煽ったことを指摘している[168]
  18. ^ 南京攻略戦の際、中支那方面軍司令官であった松井石根大将は病気と疲労のため蘇州司令部におり、南京攻略戦自体には参加していなかった[173]
  19. ^ 東京裁判のときのジョン・マギーの証言は、虐殺の事実を伝えたが、多くは他の証言の伝聞であり、直接見たのは皆無に等しいとも述べた。ただし、そのマギーの証言に対して東京裁判の被告人の弁護人のブルックスが「尋問技術を駆使してもマギーの証言の一貫性と真実性を崩すことはできなかった。そのことはブルックス自身も法廷で実感し、またウェッブ裁判長にも次第に明白になっていった。(中略)ブルックスはあらためて「この証人は公平を務めていると信じます」と答え、ニ、三追加の質問をしたあと裁判長の勧告に従い反対尋問を終了したのだった。」[203]
  20. ^ 歴史学者楊大慶の発言「第三者の観察者としてこれらの人たちは、日本軍兵士、場合によっては中国軍兵士が加えた残虐行為や損害について説得力ある情報を提供した。しかし、この種類の証拠には限界もある。(中略)残留した欧米人二十四、五人-大部分が安全区内に残っていた-は、何十万という住民がいるより広い地域でその後実際に起こったことのほんの一部分を目撃したにすぎない」
  21. ^ 兵士30,000人、一般市民8,000人から12,000人の合計。これはルイス・S・C・スマイスによる民間慈善団体の紅卍字会および崇善堂の死体埋葬記録の調査で得られた数字を参考に調整したものである[221]
  22. ^ 秦は南京の中国軍の兵力10万、5万が戦死、4万が捕虜、3万が殺害(生存捕虜は1万)と推定。台湾公式戦史、上海派遣軍参謀長飯沼守少将日記、上海派遣軍郵便長佐々木元勝の12月15日日記の「俘虜はおよそ四万二千と私は聞かされている」に符合[225]

出典

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  77. ^ 笠原 (1997)、153-154頁および秦 (2007)、116頁引用より孫引き。原文は旧仮名遣いであるが、笠原引用では現代文に直されている。
  78. ^ 秦 (2007)、116頁
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  88. ^ 吉田 (1985)、148頁の引用より孫引き。引用元は旧字旧仮名遣いカタカナ表記。いずれも現代文に改めた。強調は原文ママ、ただし吉田による強調は太字ではなく傍点。
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  93. ^ 立作太郎『戦時国際法論』日本評論社、昭和19年、p49-62
  94. ^ 水間政憲『完結「南京事件」日米中「歴史戦」に終止符を打つ』 ビジネス社、2017年8月24日 (水間は、日本軍が中国軍負傷兵を運び込んだとするが、「注釈」にあるニューヨークタイムズの記事(一九三八年一月九日 中国軍司令部の逃走した南京で日本軍虐殺行為 F・ティルマン・ダーディン上海十二月二十二日発)を正しく訳すと、実際の中国兵の負傷兵の病院への搬送は、日本軍ではなく、旧中国政府施設の野戦病院を継承した欧米人の医療関係者の自発的メンバー(彼らが国際赤十字を設置したうえでの活動)であると記載されている)
  95. ^ 笠原 (1997)、217頁
  96. ^ a b 吉田 (1985)、150頁
  97. ^ 吉田 (1985)、150頁の引用より孫引き。引用元は旧字旧仮名遣いカタカナ表記。いずれも現代文に改めた。「かっぱらっテ」のみは吉田による引用が平仮名であるが、ここでは逆にカタカナに改めた。
  98. ^ 吉田 (1985)、151-152頁
  99. ^ 笠原 (1997)、193頁
  100. ^ a b 笠原 (1997)、194-200頁
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  104. ^ 吉田 (1985)、157頁の引用より孫引き。引用元は旧仮名遣いカタカナ表記。いずれも現代文に改めた。
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  231. ^ 新華社 「(國際)中法主創人員推介漫畫書《南京1937》」Oct 29, 2014
  232. ^ 東網「国内首部南京大屠杀漫画《南京1937》出版」2014年11月10日(一) 17:50.重慶日報「国内首部讲述南京大屠杀的漫画书《南京1937》」2014年11月10日





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