教科書における表記
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/09 07:19 UTC 版)
1946年の文部省小中学校教科書では事件について記述がなされたが事件名は表記されなかった。1947年学校教育法で教科書検定制度が導入後1952年の高校用教科書「現代日本のなりたち 下」(実業之日本社)では「南京暴行事件」と表記された。 1955年(昭和30年)、日本民主党が「うれうべき教科書の問題」というパンフレットで「(社会科)教科書は偏向している」と主張する第一次教科書批判が起こる。同年の保守合同による自由民主党成立後、55年体制下で教科書への検定強化が進んだ。1955年の大阪書籍、1964年の東京書籍などの教科書には南京攻略について記述されるにとどまり、残虐行為については記述されなかった。なお1962年に家永三郎が編集した『新日本史』(三省堂)では「南京大虐殺(アトローシティー)」と表記された。1965年から家永教科書裁判が開始され、1978年の東京書籍教科書では「南京虐殺」として記載された。 1980年には自民党が教科書を批判するという第二次教科書批判が起きる。1982年には「侵略」を「進出」に書き換えたとの報道がきっかけで、中国や韓国との外交問題に発展した第一次教科書問題が発生した。その結果、近隣諸国条項が検定規準として定められた。 近年の教科書表記では、山川出版社と東京書籍が「南京事件」、帝国書院が「南京大虐殺」、清水書院が「南京大虐殺事件」、山川出版社(『詳説世界史』)と日本文教出版が「南京虐殺事件」と表記。
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