家永教科書裁判
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最高裁判所判例 | |
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事件名 | 損害賠償請求事件 |
事件番号 | 昭和61(オ)1428 |
1993年(平成5年)3月16日 | |
判例集 | 民集 第47巻5号3483頁 |
裁判要旨 | |
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第三小法廷 | |
裁判長 | 可部恒雄 |
陪席裁判官 | 坂上壽夫 園部逸夫 佐藤庄市郎 |
意見 | |
多数意見 | 全員一致 |
意見 | なし |
反対意見 | なし |
参照法条 | |
学校教育法21条1項(昭和45年法律第48号による改正前のもの),学校教育法51条(昭和49年法律第70号による改正前のもの),旧教科用図書検定規則(昭和23年文部省令第4号)1ないし3条,憲法21条,憲法23条,憲法26条,教育基本法10条,国家賠償法1条1項 |
最高裁判所判例 | |
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事件名 | 損害賠償 |
事件番号 | 平成6(オ)1119 |
1997年(平成9年)8月29日 | |
判例集 | 民集 第51巻7号2921頁 |
裁判要旨 | |
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第三小法廷 | |
裁判長 | 大野正男 |
陪席裁判官 | 園部逸夫 千種秀夫 尾崎行信 山口繁 |
意見 | |
多数意見 | 大野正男 園部逸夫 千種秀夫 尾崎行信 山口繁(論点1については全員一致、論点2については補足、反対意見有り) |
反対意見 | 大野正男 尾崎行信(論点2の一部について)千種秀夫 山口繁(論点2の一部について) |
参照法条 | |
学校教育法21条1項51条,旧教科用図書検定規則(昭和52年文部省令第32号)1条,旧教科用図書検定規則(昭和52年文部省令第32号)2条,旧教科用図書検定規則(昭和52年文部省令第32号)3条,旧教科用図書検定規則(昭和52年文部省令第32号)4条,旧教科用図書検定規則(昭和52年文部省令第32号)9条,国家賠償法1条1項 |
家永教科書裁判(いえながきょうかしょさいばん)は、高等学校日本史教科書『新日本史』(三省堂)の執筆者である家永三郎が、教科用図書検定(教科書検定)に関して、日本国政府を相手に起こした一連の裁判。1965年提訴の第一次訴訟、1967年提訴の第二次訴訟、1984年提訴の第三次訴訟がある。1997年、第三次訴訟の最高裁判所判決をもって終結。初提訴より終結まで計32年を要した為、「最も長い民事訴訟」としてギネス世界記録に認定された[1](その後、アメリカ合衆国で行われた別の裁判により記録が更新された[2])。
訴訟内容
訴訟における最大の争点が「教科書検定は日本国憲法違反である」とする旨の家永側の主張であったが、最高裁は「一般図書としての発行を何ら妨げるものではなく、発表禁止目的や発表前の審査などの特質がないから、検閲にあたらない」とし、教科書検定制度は合憲とした上で、原告の主張の大半を退け、家永側の実質的敗訴が確定した。一方、検定内容の適否については、一部家永側の主張が認められ、国側の裁量権の逸脱があったことが認定された。
第一次訴訟
家永らが執筆した『新日本史』が1962年の教科書検定で戦争を暗く表現しすぎている等の理由により不合格とされ(修正を加えた後、1963年の検定では条件付合格となった)、1962年度・1963年度の検定における文部大臣の措置により精神的損害を被ったとして提起した国家賠償請求訴訟。
- 第一審〈事件記録符号:昭和40年(ワ)第4949号〉
- 第二審〈昭和49年(ネ)第1773号・昭和50年(ネ)第1143号〉
- 上告審〈昭和61年(オ)第1428号〉
第二次訴訟
1966年の検定における『新日本史』の不合格処分取消を求める行政訴訟。
- 第一審〈昭和42年(行ウ)第85号〉
- 第二審〈昭和45年(行コ)第53号〉
- 上告審〈昭和51年(行ツ)第24号〉
- 差戻審〈昭和57年(行コ)第38号〉
- 1989年6月27日判決、東京高裁
- 判決(丹野判決)は、学習指導要領の改訂により、原告は処分取消を請求する利益を失ったとして、第一審判決を破棄、訴えを却下した。
第三次訴訟
1982年の検定を不服として家永が起こした国家賠償請求訴訟。
- 第一審〈昭和59年(ワ)第348号〉
- 1984年1月19日提訴、1989年10月3日判決、東京地裁
- 判決(加藤判決)は、検定制度自体は合憲としながらも検定における裁量権の逸脱を一部認め、草莽隊の記述に関する検定を違法とし、国側に10万円の賠償を命令した。
- 第二審〈平成元年(ネ)第3428号・平成2年(ネ)第2633号〉
- 上告審〈平成6年(オ)第1119号〉
沖縄戦に関して
家永教科書裁判では第三次訴訟で沖縄戦での住民犠牲について争われた。争点は、集団自決を記述せよとの文部省の検定意見は適当か、集団自決と住民殺害(いわゆる住民虐殺)はどちらが多いか、集団自決の様相はどんなものだったか、などであった。法廷では双方が証人を立てて沖縄戦での住民犠牲の有様を陳述した。
- 第一審では原告側が大田昌秀(琉球大学教授)、金城重明(沖縄キリスト教短期大学教授)、安仁屋政昭(沖縄国際大学教授)、山川宗秀(沖縄県立普天間高等学校教諭)が立ち、被告(国)側は曽野綾子(作家)、一富襄(元防衛庁戦史教官)が立った。
- 第二審では、原告側が石原昌家(沖縄国際大学教授)、被告側が波多野澄雄(筑波大学教授)が立った。
大田は、沖縄戦の特徴が住民殺害と「集団自決」などの住民犠牲にあることを述べた。金城は自身の「集団自決」の体験を証言し、それが自発的な意志ではなく日本軍に追い込まれたものであることを述べた。安仁屋は、自らの20年以上もの長い住民への証言聴取経験を背景に、住民虐殺も「集団自決」も同じく日本軍に責任があり、軍総指揮官にその意図(命令)があったこと、直接的な軍命がなくても、軍が作り出した状況自体が決定的だとした。また、「赤松嘉次が、集団自決を命令した、命令しなかったという事件よりも、住民処刑のほうがもっと問題だ」と述べた。山川は沖縄戦の学習状況を説明し、検定意見では間違った内容が生徒に伝わるとの意見を述べた。曽野は、渡嘉敷島での自分の取材経緯を説明し、「集団自決」の時に軍からの命令があったという証言はなかったと述べた。一富は住民は自らの意志で軍に協力し、また自決したと確信していると述べた。石原は、その長い証言取材経験から住民犠牲の態様を三十ほどに分類し、住民虐殺も「集団自決」もともに日本軍に原因があり、追い込まれたものと説明した。波多野は住民虐殺と「集団自決」は違う分類としたが、ともに日本軍に強いられたものという説明を行った。
曽野は第一審で証人として立ち多くの質問に答えている。それによれば、渡嘉敷島には10日間程度1人で滞在して取材した、当時兵事主任であり軍命を受けたと証言している富山真順について、「彼がそれだけのことを知っているのならば飛びついて、すぐに取材をしていたはずだが、村の誰もそのようなことは言わなかった」とし、富山自身は曽野に会ったと証言したが、曽野は富山には取材はしていないと証言した。住民の多くの証言が収録されている『沖縄県史・第10巻』は読んでいない、自著で批判した『鉄の暴風』の執筆者太田良博から批判があり『沖縄タイムス』上で論争をしたこと、自著の「ある神話の背景」では「集団自決」の強制となる証拠は見当たらなかったという事を書いたつもりだ、と述べた。
判決は第一審から第三審まで検定意見は適法とし、国が勝訴した。その前の事実認定としては住民殺害より集団自決の方が数が多いとは必ずしも言えない、集団自決については「学会の状況にもとづいて判断すると、本件検定当時における沖縄戦に関する学会の状況は(中略)日本軍の命令によりあるいは追いつめられた戦況の中で集団自決に追いやられたものがそれぞれ多数にのぼることは概ね異論のないところであり」とし、集団自決の原因については、「集団的狂気、極端な皇民化教育、日本軍の存在とその誘導、守備隊の隊長命令、鬼畜米英への恐怖心、軍の住民に対する防諜対策、沖縄の共同体の在り方など様々な要因が指摘され、戦闘員の煩累を絶つための崇高な犠牲的精神によるものと美化するのは当たらないとするのが一般的」とした(第三次訴訟・高裁判決文)。
脚注
- ^ “1974年 家永教科書裁判”. www.jicl.jp. 2020年10月15日閲覧。
- ^ “Longest running civil court case by an individual” (英語). Guinness World Records. 2022年9月7日閲覧。
- ^ 当初は5月中旬提訴予定だった。これはテレビドラマ『判決』(日本教育テレビ・東映)の一編として、教科書問題をテーマに制作された「佐紀子の庭」が同年5月19日に放送予定であったことと関連する。家永はこの作品に脚本協力として携わっており、この放送と同時期に提訴することを考えていた。しかし、内容が問題視されたことで放送中止となったため、提訴も6月12日に延期したという経緯がある[要出典]。
- ^ 『ジュリスト』 1026号 [要ページ番号]
関連文献
- 大田堯・尾山宏・永原慶二 編 編 『家永三郎の残したもの 引き継ぐもの』日本評論社、2003年12月。ISBN 4-535-58382-X 。
- 家永三郎 『教科書裁判』日本評論社、1981年。
- 家永教科書訴訟弁護団 編 編 『家永教科書裁判 32年にわたる弁護団活動の総括』日本評論社、1998年11月。 ISBN 4-535-51157-8 。
- 秦郁彦 『現代史の虚実 沖縄大江裁判・靖国・慰安婦・南京・フェミニズム』文藝春秋、2008年5月。 ISBN 978-4-16-370270-4 。
関連項目
外部リンク
- 『教科書裁判』 - コトバンク
- 第一次家永訴訟 訴状全文
- 第一次家永訴訟 上告審判決(第三小法廷)
- 第二次家永訴訟 第一審判決(杉本判決) - ウェイバックマシン(2010年1月1日アーカイブ分)
- 第二次家永訴訟 第三審判決(丹野判決)
- 第三次家永訴訟 上告審判決(第三小法廷)
家永教科書裁判
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/30 07:50 UTC 版)
また、家永三郎が教科書検定制度は違憲として提訴した家永教科書裁判では南京大虐殺の記述についても争われた。 昭和55年度検定の家永教科書では「南京占領直後、日本軍は多数の中国軍民を殺害した。南京大虐殺とよばれる。」と記述。文部省検定委員は「占領直後、軍の命令により日本軍が組織的に中国の民間人や軍人を殺害したかのように読み取れるが、南京事件に関する研究状況からして、そのように断定することはできない」と検定意見を出し、教科書調査官が修正方法として「混乱の中で」の加筆を求め、「激昂裏に」が付加された。 昭和58年度検定の家永教科書では「日本軍は南京占領のさい、多数の中国軍民を殺害し、日本軍将兵のなかには中国婦人をはずかしめたりするものが少なくなかった。南京大虐殺とよばれる。」と記述。検定委員は婦人の陵辱は人類史上どの戦場にも起こったことで日本軍だけ取り上げるのは問題があり削除を要求した。 1993年10月、東京高裁は昭和55年度検定について、大虐殺には多様な説があって、虐殺が軍上部機関の命令によって行われたといい得る状況にはなかったので、軍上部機関の指揮で行われたと読み取られる危険性を修正要求することは理由があるとして検定は合法とした。ただし、修正で「激昂裏に」が付加されたが、虐殺行為のすべてをそう説明できず、また一面的な見解を配慮なく取り上げたり、未確定事象の断定的記述を除外するという検定基準に違反する誤りを検定委員はみずから招来させたと判決した。 また、昭和58年度検定については「学界の状況に基づいて判断すると、南京占領の際の中国人の女性に対する貞操侵害行為は、行為の性質上その実数の把握が困難であるものの、特に非難すべき程多数で、残虐な行為として指摘され、中国軍民に対する大量虐殺行為とともに南京大虐殺と呼ばれて、南京占領の際に生じた特徴的事象とされているのが支配的見解であ」り、修正意見は学説状況の認識を誤っ たか、検定基準の解釈適用を誤ったとして違法と判決。1997年8月、最高裁が上告棄却で確定した。
※この「家永教科書裁判」の解説は、「南京事件論争史」の解説の一部です。
「家永教科書裁判」を含む「南京事件論争史」の記事については、「南京事件論争史」の概要を参照ください。
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