千日手を巡る出来事
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/14 04:27 UTC 版)
第18期十段戦予選第109手 ▲3九桂まで(この後、同一局面が8回出現)△加藤一二三 持駒:金二歩三 9 8 7 6 5 4 3 2 1 香 龍 桂 桂 香 一 金 王 二 桂 と 銀 歩 歩 三 歩 角 歩 四 歩 歩 五 歩 歩 銀 歩 六 歩 馬 銀 七 歩 玉 銀 歩 八 香 金 桂 香 九 ▲大山康晴 持駒:飛歩二 1906年(明治39年)、関根金次郎と坂田三吉との戦い(関根香落ち)で、終盤、坂田が千日手の「攻め方打開」のルールを知らなかったとされ、無理に打開してペースが狂い惜敗したとされる。しかし、坂田が「千日手の当時のルールをしらなかった」エピソードがあったのは、1903年(明治36年)の関根が角または香を落とした一番だという説もあり、そちらのほうが、「関根との一番で、千日手の打開をルールを知らずに強制的に負けにさせられた」という坂田の著書『将棋哲学』での記述と一致している。また、戯曲や映画作品の『王将』の中では、「坂田が、関根との初の戦いで、千日手を知らずに指し、ルールで強制的に負けにさせられた」と、誇張された表現になっている(実際は、坂田・関根戦の初戦ではない)。 1940年、第2期名人戦第3局の、木村義雄対土居市太郎の一戦で、二局連続の千日手となって批判が集まり、関根金次郎十三世名人が、それ以上の千日手が続くことを心配して、「シンキイッテンシテサスベシ」と電報を打った。続く対局も千日手模様となったが、先手の土居が打開して勝利、この一局は名局とされ「定山渓の決戦」と呼ばれるようになった。 1947年、第6期名人戦で、木村義雄は千日手を回避し、それが元で敗北してしまったと、第七局の観戦記を担当した作家の坂口安吾が厳しく指摘・批判し、「千日手を回避すると負けてしまう状況なら、勝負を重んじて千日手にするべきだ」と論じている。坂口は、それが第6期名人戦の「第六局だかで」としている(ちくま文庫版安吾全集第5巻収録「散る日本」より)。ただし、この、坂口が観戦した第7局、坂口が批判した第6局とも、千日手指し直しの末のものであり「木村が千日手を避けて」はいない。また、第6局の千日手後の指し直し局(木村先手・塚田後手、塚田勝ち)の棋譜を見ても、千日手模様となっている局面が発見できない。また、第5局(塚田先手・木村後手、塚田勝ち)について、相矢倉戦で千日手模様となった局面があったが、当時の将棋世界に掲載された木村・塚田の対談記事(『将棋世界「将棋名人戦」~昭和・平成 時代を映す名勝負~』(マイナビ出版刊行)に収録)によると、塚田は「作戦負けの将棋ですから千日手になれば成功と思っていました」、木村は「僕の方は千日手にしては割が悪いので、打開の道を考えたが、敵飛角の形が悪いから、九筋を強襲しても悪くないと信じて9五歩と突いた」と語っており、坂口の指摘と一致しない。 1963年度の第18期順位戦での加藤一二三八段(当時)対丸田祐三八段(当時)の4回戦では千日手局が4回成立した。当時の新聞掲載観戦記によると、3度目の千日手までは同日に実施、数日後に実施した4度目の対局が4たびの千日手となり、その翌日に決着局となる5度目の対局が実施された。加藤は、同年度の第18期順位戦6回戦の熊谷達人八段(当時)との対局においても、4度の千日手成立のち5度目の対局を再度行なっている。 第18期(1979年度)十段戦大山康晴 対 加藤一二三王将の一戦では、加藤の攻めを大山が受け、95手目に千日手模様となった。しかし加藤は打開しようとせず、金銀の打つ順番を変える、馬を入る、不成にするなどで同一手順を回避しながら長引かせた。これに大山は激怒し、時計を止めて丸田祐三に電話し裁定を依頼するも、「現行のルールでは裁定できないから、指し続けてください」とあしらわれてしまった。結果、この手順の繰り返しと電話の間に加藤は打開の手順を読み、179手で勝利している。この対局では76手千日手模様が続き、最多の同一局面は8回出現していた。この後、前述の米長邦雄対谷川浩司戦でも同様の事例が発生し、千日手のルールが改定されることになった。 第40期(1982年度)名人戦中原誠名人対加藤一二三十段の七番勝負は、持将棋1局と千日手2局を含む「十番勝負」となり、4勝3敗で加藤が悲願の名人位を獲得した。持将棋も千日手も後日指し直しとしていたため、1982年4月13日に第1局1日目が開始の「十番勝負」が決着したのは、3ヶ月半後の7月31日であった。 第63期棋聖戦五番勝負(1993年12月-1994年2月)の第3局では千日手成立後の差し直し局でも2度目の千日手局が成立、規定では30分後に再差し直しだが、2局連続の千日手のため特別に後日の差し直しとし、当初日程の第4局を第3局再差し直し局にスライドさせる対応をした。 第44期王将戦七番勝負最終局(1995年3月)では、谷川浩司王将が羽生善治竜王・名人(六冠)を千日手指し直しの末に破り、羽生の七冠制覇を阻止した。 第15期竜王戦七番勝負(2002年10月-2003年1月)の羽生善治竜王対阿部隆七段)では、台北で実施された第1局が千日手2回となり、第1局の指し直し局を第2局の日程にずれ込ませ、以降繰り下げとなる異例の措置が取られた。 (2010年度)第51期王位戦七番勝負では、第5局、第6局で、深浦康市王位対広瀬章人六段の対局で、いずれも相穴熊の状態から千日手が成立した。第5局指し直し局は両者穴熊に囲わない対局を広瀬が勝利。第6局指し直し局は、広瀬は振り飛車穴熊、あとがない深浦は銀冠に囲い、激しい攻め合いとなったが、この対局も広瀬が攻め合いを制し、初タイトル・王位を奪取した。 第61回NHK杯1回戦佐藤康光九段対永瀬拓矢四段戦(2011年6月5日放送)では同棋戦で史上初となる2回連続千日手が発生し、再指し直し局で131手で永瀬が勝利している(対局内容は最初は先手番永瀬の升田式石田流対後手番佐藤の居飛車での振飛車対抗形、指し直し局は先手番佐藤は、前局同様居飛車での対抗形対後手番永瀬はゴキゲン中飛車、再指し直し局は最初の対局同様先手番永瀬の升田式石田流対後手番佐藤の居飛車での振り飛車対抗形)。 2012年10月3日の第60期王座戦第4局の▲渡辺明王座△羽生善治二冠戦では、羽生が122手に6六銀を指して局面が膠着する。22時9分まで142手を指したところで千日手となった。22時39分〜深夜2時2分に行われた指し直し局で羽生が勝利。渡辺は「最後は勝ちになったのかと思っていましたが△6六銀とはすごい手があるものです」と感想を述べた。なお、千日手局・指し直し局合わせて2012年度の将棋大賞名局賞を受賞した。 2014年9月2日の第27期竜王戦5組昇級者決定戦、伊藤真吾対宮田敦史戦は3回連続千日手指し直しとなった。1局目は序盤で午後5時3分に千日手に、2局目は午後11時30分に中盤で千日手、3局目は翌9月3日の午前3時12分に千日手となった。4局目が終ったのは午前6時51分(結果は宮田の勝ち)。4局合計の指し手数は405手だった。 2019年4月10日の第77期名人戦第1局、佐藤天彦対豊島将之の一番が千日手となった。名人戦での千日手は16年ぶりとなる。 2020年4月17日の第33期竜王戦2組準決勝、松尾歩対佐々木勇気戦において午後9時48分、千日手が成立。新型コロナウイルス感染症の流行に伴う緊急事態宣言下での対局であり、対局者・関係者への安全を考えた両者の合意と連盟側の協議の下、通常休憩を挟んでそのまま行われる指し直し対局の後日への延期が決定された。4月30日午後1時より行われた指し直し局は、通常の千日手指し直しと同様に手番の入替と持ち時間の加算調整が行われ、佐々木が勝利して1組昇級と決勝トーナメント進出を決めた。 2022年6月4日の第93期棋聖戦第1局、藤井聡太棋聖対永瀬拓矢王座戦は1日で2回連続千日手指し直しとなった。1度目の千日手局は16時17分に成立、2度目の千日手局は17時38分に成立した。タイトル戦では異例となる、一日で3局目となる再差し直し局が30分後に開始され、終了したのは21時42分だった(結果は永瀬王座の勝ち)。
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