出演状況に変化のあった歌手とは? わかりやすく解説

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出演状況に変化のあった歌手

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 06:46 UTC 版)

「ザ・ベストテン」記事における「出演状況に変化のあった歌手」の解説

番組初期によく出演したが、後半になると出演拒否近かった歌手1980年代後半になると出演拒否が目立つようになる。この番組だけに限らず、同じランキング形式番組である『ザ・トップテン』『歌のトップテン』や、その他歌番組などでも似た現象見られた。 おニャン子クラブ 1986年春頃から当時ブームおニャン子クラブ、そのメンバーによるソロユニット毎回3組ほどランキングされていたのだが、徐々に出演辞退拒否)が増え1986年8月7日から1987年4月2日まではメンバーグループ卒業後の出身者も含む)が一切出演しなくなった対照的に、『歌のトップテン』にはスケジュールが許すかぎり、積極的に出演していた。 これは『ザ・ベストテン』側とおニャン子クラブ抱えフジテレビ側とのランキングに関して見解の相違原因おニャン子クラブとその母体であるフジテレビ番組夕やけニャンニャン』が重視していたオリコンチャートでは、1986年シングル1位を獲得した46曲中、おニャン子クラブ関係が計30曲・全52週中の36週にも及んでいたが、同年中の番組では新田恵利冬のオペラグラス1986年1月30日2位(8699点)「恋のロープをほどかないで」が二週連続最高位3位獲得した以外は4位からその下のランキングがほとんどであった(『歌のトップテン』では2位まで行った曲が多く全般的にベストテンよりも上位傾向)。 『ザ・ベストテン』ではランキング作成するにあたってレコード売上の他に、ラジオリクエスト、有線、ハガキリクエストも要素としていたため、レコード売上特化していたおニャン子関連楽曲は、他の要素上位を取ることが出来ず下位沈んだ。それに対してフジテレビプロデューサーだった石田弘は「わざわざコストをかけて歌わせるのは馬鹿馬鹿しい」として、1986年春頃から出演辞退が目立つようになった。ただし、同じく石田と関係が深かったとんねるずに対しては、あくまでも外部タレントであることもあり、後述通りランクインしても出演拒否指示しなかった。 一方、同じフジテレビでも横澤彪王東順中心とするそれぞれのバラエティ制作班や、ドラマ制作部門本番組に協力的で、ランクインしたおニャン子クラブ以外の歌手フジテレビでの番組収録中にも出来る限り局内からの中継許可していたため、松宮一彦中継時に各方面です」と揶揄したことがあった。 『ザ・ベストテン』当初静観し放送では出演辞退理由オブラート包んだような取り繕った表現濁していたのだが、事態深刻化していくと「今日河田町変なマーク陰謀で、おニャン子出演できません」と揶揄し対する『夕やけニャンニャン』も番組の中で、『ザ・ベストテン』プロデューサー東京大学出身石田日本大学出身だったことから「東大日大戦争勃発!」と笑い取りながらも応酬したまた、松下賢次が「フジテレビニュース大嫌い!」と発言し週刊誌書かれるほどの物議を醸した一切出演辞退解禁され1987年4月2日以降もたびたび出演辞退起こり1987年5月28日うしろ髪ひかれ隊の「時の河を越えて」が第9位にランクインされた際、その出演了承されて、曲に合わせたセットダンサー用意されていたのだが、放送2日前の土壇場になって出演キャンセルという事態が起こった仕方なく『ザ・ベストテン』側は、そのセットダンサーたちを使って若手女性スタッフたちによる代役番組内では「ベストテンリハーサルガールズ」と呼称)による歌唱という異常な措置敢行し、松下憤慨したコメントを出すに至ったおニャン子クラブ『ザ・ベストテン』双方ファンの声が無視されこの醜悪な抗争は、『夕やけニャンニャン』が1987年8月末で番組終了しおニャン子クラブ同年9月をもって解散したことにより終結したその後、元おニャン子クラブ歌手達はフジテレビによる芸能活動への縛り無くなったことによって『ザ・ベストテン』には通常出演を果たすようになる。なお、元おニャン子クラブ関連の曲が1位になるのは、グループ解散から一年後1988年9月工藤静香によって達成され、同番組最終回の1位も工藤であった郷ひろみ 1982年哀愁のカサブランカ」が10連続『ザ・ベストテン』入りしたが、郷自ら「愛す自分の曲に順位付けされたくない」という理由ランキング番組への出演辞退宣言。この曲以降1982年哀しみの黒い瞳」、1983年素敵にシンデレラ・コンプレックス」、1984年の「2億4千万の瞳」の3曲がオリコンではベストテン入りしたものの、『ザ・ベストテン』には3曲共10以内ランキングされなかった。 この出演辞退の件については、後日放送され『中居正広の金曜日のスマたちへ』でのベストテン企画における郷本人への直接インタビューにおいて、本人の口から語られた。ただし、郷は久米の降板時に本番組側に手紙送ってそれが本番組内でも紹介されている他、後年復活特番にも出演している。 出演拒否表明した当時、郷が所属するバーニングプロダクション関係者同事務所と関連の深いフジテレビ系の『夜のヒットスタジオ』のスタッフ意向に従って出演拒否表明したとする説も囁かれていたが、同じ系列『8時だョ!全員集合』や『ミュージックフェア』(フジテレビ)など他の非ランキング形式音楽番組では、いかにバラエティーの色が強い番組であっても率先して出演し新曲披露し続けていることから、純粋に自身彼に近い関係者らの音楽対す考え方変化現われとして出た発言と見る向きが現在では一般的となっている。郷の出演拒否1980年代前半のことで、当時大きな話題になったサザンオールスターズ 1978年から1984年までランクインすればほぼ毎回出演していたが(1980年から1981年まではランクイン無し)、1985年頃からランクインされても徐々に出演回数少なくなった(約3回程度披露したらあとは登場無し)。KUWATA BAND時代も同様であったが、「スキップ・ビート」「MERRY X'MAS IN SUMMER」を同時期にヒットさせた時にはツアー時期重なった事からスタジオ出演こそ1週のみだったが、中継には積極的に出演し計6週出演したまた、年末豪華版年間ランキング発表時)にもスタジオ出演している。 1989年ランキングされた最後ランクイン曲「さよならベイビー」は1度披露されず、1988年8月25日ランクインした「みんなのうた」のVTR出演最後になった。なお、最後の出演より約10年後となる1998年7月31日『金曜テレビの星!サザン20周年緊急特番 バカさわぎの腰つき!!』にてサザンオールスターズのみが出演する「ザ・ベストテン」再現司会久米宏黒柳徹子起用し番組出演時の迷場面集やトーク当時再現した番組セットバックに「PARADISE」を披露したまた、サザンファンを公言するミュージシャンお笑い芸人タレントひな壇ゲスト登場岡本麗スガシカオ出川哲朗爆笑問題森雪之丞)。 杉山清貴杉山清貴&オメガトライブを含む)、1986オメガトライブ菊池桃子 1987年半ば当時の所属事務所トライアングルプロダクション)が提携関係だったバップ日本テレビとの関係優先したため、この時期は全く出演無かった同時期の日本テレビ歌のトップテン』には出演していた)。1988年になると杉山出演するようになり、菊池ラ・ムー1986オメガトライブ改名したカルロス・トシキ&オメガトライブとして出演した杉山清貴杉山清貴&オメガトライブ時代にも出場変化があり、「サイレンスがいっぱい」までは頻繁に出演していたが、ラストシングルとなったガラスのPALM TREE」のランクイン時は、解散前最後ツアーへの出演優先した為、生放送杉山清貴によるコメント放送した結局スタジオで出演一度無く1985年最後の放送では既にバンドツアー終え解散していた為、解散コンサート模様VTR収録したもの放送された。 竹内まりや 1980年に「不思議なピーチパイ」が「今週のスポットライト」で初出演その後も同曲がランクインされた時には毎回ベストテンスタジオ出演していた。しかし、1982年山下達郎との結婚後は、家庭育児専念するという本人意向により、ベストテン以外の音楽番組含めてテレビ出演一切行なっていなかった。同番組の最終回放送となった1989年9月28日竹内自身9年ぶりに「シングル・アゲイン」で8位にランキングされた際も、スタジオへの生出演はしなかった。ただし、黒柳徹子との電話インタビューに応じており、同番組出演時の想い出自身近況等を報告している。 とんねるず 前述石田弘と関係が深かった一方おニャン子クラブ異なり外部タレントであったことから出演拒否はしなかったが、1988年10月より『ザ・ベストテン』同時間帯にフジテレビで自らの冠番組とんねるずのみなさんのおかげです』を開始したことで、同番組への配慮同時間帯に別々の放送局同時にテレビ出演することは禁止明文化されているわけではないが、タブーな行為とされている)からシングル発売控えたため、それ以降『ザ・ベストテン』終了まで出演することは無かったとんねるず次のシングル発売したのは1990年)。 長渕剛 1987年ろくなもんじゃねえ以降は、1988年2月18日に「乾杯」が第8位に初ランクインしたときに登場し3月3日にも出演したそれ以降1988年12月1日の「とんぼ」まで出演拒否続けたこの間に1曲ランクインしたが1度披露されることはなく、最後ランクイン曲「激愛」も披露されなかった。長渕側は「乾杯以降は、「ランキングされた曲が1位になったら、一度だけ出演する」という意向示していたため、1位を獲得した「とんぼ」の時は、最初一回だけ出演した長渕主演したTBSドラマ『とんぼ』の主題歌でもあった)。その後復活特番には一切出演していない。 松田聖子 1985年4月18日の「天使のウィンク」まではほぼ毎回出演していたが、その後ボーイの季節」のランクイン時は、神田正輝神田沙也加登場したこともあった。 山口百恵 1980年2月21日の「愛染橋」まではランクインすればほぼ毎回登場していた。しかし、1980年3月7日三浦友和との婚約同時に芸能界引退発表次の謝肉祭」のランクイン辺りから、休暇映画ロケ等の理由出演辞退多くなる欠席時にはVTR放送の対応などもあった)。その後ロックンロール・ウィドウ」の時は中継数回出演しただけで、スタジオ入りはしなかった。そして最後ランクイン曲となる「さよならの向う側」では、10位だった1980年9月25日一度のみスタジオ出演してフルコーラス歌ったが、これが山口最後『ザ・ベストテン』登場となった(その同日の1位は当時ポスト百恵」と言われ松田聖子の『青い珊瑚礁』)。それから山口は同番組一切出演せず、1980年10月15日をもって完全引退。なお、1980年11月19日リリースの「一恵」は最高位13位に留まりベストテン入りは成らなかった。

※この「出演状況に変化のあった歌手」の解説は、「ザ・ベストテン」の解説の一部です。
「出演状況に変化のあった歌手」を含む「ザ・ベストテン」の記事については、「ザ・ベストテン」の概要を参照ください。

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