主な事跡
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第一期(初代) 当時の青森の飲料水は非常に水質が悪く、それの対応として上水道の設備に取り掛かっていた。当時青森市では1886年にコレラ、1891年には腸チフスが大流行していた。だが、日露戦争の影響で着工が出来なくなり、1907年4月まで工事が開始されず、やっと完成したのは1909年の事であった。また、1901年には青森第三中学校(現:青森県立青森高等学校)を開校させている。 第二期(5代・6代) 1910年5月3日、青森市は火災により5千戸以上が焼失したが、この際彼は自ら東京の街頭に立ち義援金募集をし復興事業を引っ張っている。復興の都市計画でも、防火線の設置などさまざまな取り組みを行った。 第三期(8代) 市議会が混乱していた(前任の阿部政太郎は弘前高等学校(現:弘前大学)を作ることを認めてしまっていた)ため、まとめ役として就任したが、この頃には体力的にもかなり限界に来ていたようである。貿易港に指定された青森港の国営修築を目指して奔走しているが、最後は病気により辞任し、翌年に亡くなっている。今なお彼は人生を政治にかけた例として語り継がれている。
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主な事跡
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浴衣の卒業式 東京大学の卒業式に洗いざらしの浴衣で出席した、というエピソードがある。当然関係方面から苦情が来たが、「天にも地にも此れ1枚しかない」と言って押し通した。 甲武鉄道(現:中央本線)の直線 甲武鉄道の工事担当者であった時期、中野 - 立川間の線路敷設で悩んでいた。青梅街道や甲州街道沿いに敷設したかったが、当時鉄道敷設には強烈な反対運動が起こっていた。しかし、反対運動がないところを通せば、利用客は少ない。悩みに悩んでついに怒り心頭に発し、地図上に「えい、やっ」と、一直線の赤線を引いた。これが、現在の中野駅から立川駅に至る約25kmの直線であるという。当時は、一面の原野と桑畑だった。この話については「測量技師がルート選定にいろいろ注文を付けられて腹を立て、放り投げた定規が地図の上に落ちたところに決めた」という異説もある。なお、これらの説について青木栄一は、「鉄道建設の常識から考えておかしい」(一直線の線路は願ってもない理想のルートであり、反対運動に遭って仕方なく選ぶようなものではない。また、そもそも街道沿いに反対運動が起こっていたという明確な証拠がない)と否定している。 日本鉄道(現:東北本線)建設の猛烈監督 栗橋から宇都宮までの建設を担当した。朝は5時に起きて床の中での朝食後、洗顔もせずに靴を座敷ではいて現場に行き、昼食は付近の畑から野菜をもぎとり、一日中歩きまわって親方達を督促し、月が出るまでは工事をやめさせないという仕事ぶりを発揮した。測量などでは邪魔になる家屋があると無断で壁に穴をぶちあけるという奇行ぶりであったという。しかし、工学士としてはじめて鉄道をつくっただけあり、それまでの線路より合理的に作られていると評判になった。 碓氷峠のアプト式鉄道建設 碓氷峠を越える鉄道建設ルートの検討では、25‰から100‰にも達する急勾配線、ループ線、スイッチバック、鋼索鉄道などが候補に挙がっていた。しかし鉄道局長官井上勝は、当時ドイツに留学中の仙石と吉川三次郎からの報告により、明治18年(1885年)ドイツで60‰の勾配をラックレール(歯型レール)で登る鉄道が完成したことを知り、横川 - 軽井沢間をアプト式鉄道で建設することを決定した。明治24年(1891年)3月24日に着工し、明治26年(1893年)4月1日に開通した。 九州鉄道の改革 明治29年に筑豊鉄道社長に就任したのち、九州内の鉄道経営の合理化を図って会社合併を進めた。2年後に結実し、筑豊鉄道の経営陣を加えた新たな経営陣での九州鉄道が創立され、社長に就任、サービスの改善や設備の改良に努めた。末期には、豪華客車をアメリカのブリル社に発注したりもしているが、日本に到着したのは同社の国有化後で、満足に活用されることはなかった。なお、この九州鉄道の社長時代にしばしば山陽鉄道を利用したが、そのスピード運行ぶりには批判的な感想を残している。 鉄道広軌化 仙石は鉄道広軌化論者であり、鉄道院総裁時にはいろいろな献策をしている。詳しくは日本の改軌論争を参照。 猪苗代水力電気会社 1911年(明治44年)、猪苗代水力電気会社の発足に関与して社長に就任。猪苗代湖の湖水を利用して発電、当時技術的な目途がついたばかりの高圧送電により、200km以上離れた関東地方に届けるプロジェクトを始めた。「設計・工事とも当代再優秀なものにせよ。資金を惜しむべからず」との号令の下、受益者の目に触れることのない部分にも力が注がれており、発電所建屋の設計は辰野金吾が行った。1914年(大正3年)に猪苗代第一発電所を完成。運用開始時の出力は東洋一の37,500kWであり、日本の産業、経済を長らく支えることとなった。 電車運転不調の謝罪広告 1914年(大正3年)12月20日の東京駅開業に合わせ、東京駅 - 高島町仮駅(後の二代目横浜駅)の間で京浜線電車の運転を開始した。しかし、軌道が固まっていなかったことや米国製パンタグラフの不調もあって、運行開始当日から電車が立ち往生するトラブルが発生。翌日、鉄道院総裁である仙石の名前で新聞に謝罪広告が掲載されるに至った。その後もトラブルが続発したことで、同年12月26日から半年近く休止に踏み切り、対策を講じた上で翌年5月10日に運行を再開した。 政界進出、晩年 仙石は憲政会・民政党を支援し、自らも衆議院議員、鉄道大臣を歴任。浜口雄幸内閣では南満州鉄道総裁に就任し、鉄道人として栄達を極めた。しかし糖尿病の悪化により、その才を発揮できないまま辞任。まもなく亡くなった。
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