主な事跡とは? わかりやすく解説

主な事跡

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/11 07:56 UTC 版)

工藤卓爾」の記事における「主な事跡」の解説

第一期初代) 当時青森飲料水は非常に水質悪く、それの対応として上水道設備取り掛かっていた。当時青森市では1886年コレラ1891年には腸チフス大流行していた。だが、日露戦争影響着工出来なくなり1907年4月まで工事開始されず、やっと完成したのは1909年の事であったまた、1901年には青森第三中学校(現:青森県立青森高等学校)を開校させている。 第二期5代6代1910年5月3日青森市火災により5千戸以上が焼失したが、この際彼は自ら東京街頭に立ち義援金募集をし復興事業引っ張っている。復興都市計画でも、防火線設置などさまざまな取り組み行った第三期8代市議会混乱していた(前任阿部政太郎弘前高等学校(現:弘前大学)を作ることを認めてしまっていた)ため、まとめ役として就任したが、この頃には体力的にもかなり限界来ていたようである。貿易港指定され青森港国営修築目指し奔走しているが、最後病気により辞任し翌年亡くなっている。今なお彼は人生政治にかけた例として語り継がれている。

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主な事跡

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/14 08:12 UTC 版)

仙石貢」の記事における「主な事跡」の解説

浴衣卒業式 東京大学卒業式洗いざらし浴衣出席した、というエピソードがある。当然関係方面から苦情が来たが、「天にも地にも此れ1枚しかないと言って押し通した甲武鉄道(現:中央本線)の直線 甲武鉄道工事担当者であった時期中野 - 立川間の線路敷設悩んでいた。青梅街道甲州街道沿いに敷設したかったが、当時鉄道敷設には強烈な反対運動起こっていた。しかし、反対運動がないところを通せば利用客少ない。悩み悩んでついに怒り心頭発し地図上に「えい、やっ」と、一直線赤線引いた。これが、現在の中野駅から立川駅に至る約25kmの直線であるという。当時は、一面原野桑畑だった。この話については「測量技師ルート選定にいろいろ注文付けられ腹を立て放り投げた定規地図の上落ちたところに決めた」という異説もある。なお、これらの説について青木栄一は、「鉄道建設常識から考えておかしい」(一直線線路願ってもない理想ルートであり、反対運動遭って仕方なく選ぶようなものではない。また、そもそも街道沿いに反対運動起こっていたという明確な証拠がない)と否定している。 日本鉄道(現:東北本線建設猛烈監督 栗橋から宇都宮までの建設担当した。朝は5時に起きて床の中での朝食後、洗顔もせずに靴を座敷ではいて現場行き昼食付近の畑から野菜をもぎとり、一日中歩きまわって親方達を督促し、月が出るまでは工事をやめさせないという仕事ぶり発揮した測量などでは邪魔になる家屋があると無断で壁に穴をぶちあけるという奇行ぶりであったという。しかし、工学士としてはじめ鉄道つくっただけあり、それまで線路より合理的に作られていると評判になった碓氷峠アプト式鉄道建設 碓氷峠越え鉄道建設ルート検討では、25‰から100‰にも達す急勾配線、ループ線スイッチバック鋼索鉄道などが候補挙がっていた。しかし鉄道局長官井上勝は、当時ドイツ留学中仙石吉川三次郎からの報告により、明治18年1885年ドイツ60‰の勾配ラックレール歯型レール)で登る鉄道完成したことを知り横川 - 軽井沢間をアプト式鉄道建設することを決定した明治24年1891年3月24日着工し明治26年1893年4月1日開通した九州鉄道改革 明治29年筑豊鉄道社長に就任したのち、九州内鉄道経営合理化図って会社合併進めた2年後結実し筑豊鉄道経営陣加えた新たな経営陣での九州鉄道創立され社長に就任サービス改善設備改良努めた末期には、豪華客車アメリカブリル社に発注したりもしているが、日本到着したのは同社国有化後で、満足に活用されることはなかった。なお、この九州鉄道社長時代にしばしば山陽鉄道利用したが、そのスピード運行ぶりには批判的な感想残している。 鉄道広軌仙石鉄道広軌論者であり、鉄道院総裁時にはいろいろな献策をしている。詳しく日本の改軌論争参照猪苗代水力電気会社 1911年明治44年)、猪苗代水力電気会社発足関与して社長に就任猪苗代湖湖水利用して発電当時技術的な目途がついたばかり高圧送電により、200km以上離れた関東地方届けプロジェクト始めた。「設計工事とも当代優秀なものにせよ。資金惜しべからず」との号令の下、受益者目に触れることのない部分にも力が注がれており、発電所建屋設計辰野金吾が行った。1914年大正3年)に猪苗代第一発電所完成運用開始時の出力東洋一37,500kWであり、日本産業経済長らく支えることとなった電車運転不調謝罪広告 1914年大正3年12月20日東京駅開業合わせ東京駅 - 高島町仮駅(後の二代目横浜駅)の間で京浜線電車の運転を開始した。しかし、軌道固まっていなかったことや米国パンタグラフ不調もあって、運行開始当日から電車立ち往生するトラブル発生翌日鉄道院総裁である仙石の名前で新聞謝罪広告掲載される至ったその後トラブル続発したことで、同年12月26日から半年近く休止踏み切り対策講じた上で翌年5月10日運行再開した政界進出晩年 仙石憲政会民政党支援し、自らも衆議院議員鉄道大臣歴任浜口雄幸内閣では南満州鉄道総裁就任し鉄道人として栄達極めた。しかし糖尿病悪化により、その才を発揮できないまま辞任。まもなく亡くなった

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